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The Ultimate Accident

The Ultimate Accident


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The Ultimate Accident / 究極のアクシデント

Chiyono and Her Bucket of Water

千代能と彼女の桶一杯の水




commentary(解説)…

自分の探究においては真正でありなさい。
そのためにあらゆることをしなさい。

映し出されたものの背後にある元のものを知ろうとする渇き、それがあなたを『究極のアクシデント』に値するものにしてくれます。




osho…

千代能はとても美しい女性だった--類まれな美しさだった。帝や皇子たちまでが彼女を追いかけた。

彼女は拒絶した。彼女は神聖なるものの恋人にしかなりたくなかった。だから誰も見合わず、彼らの期待を満たせなかった。

彼女は尼僧になるために弟子入りするため寺々を訪ねて歩いた。だが、偉大な導師でさえも断った--彼女のあまりの美しさゆえに、問題が生じるからだ。

寺には非常に大勢の僧侶がいた--そしてもちろん、僧侶は抑圧された人々だ--千代能はとても美しかったので、彼らは神やあらゆることを忘れてしまう。だから、どこもかしこも扉が閉ざされた。導師は言った。

「あなたの探求はよろしい。だが、わたしは自分の人々の面倒も見なくてはならない。ここには五百人の僧侶がいるが、彼らは狂ってしまう。瞑想を忘れ、経典を忘れ、すべてを忘れるだろう。あなたが神になってしまう。だから千代能、この哀れな人々を邪魔しないように、あなたは行きなさい。」

それで千代能はどうしたと思う?

どんな方法も見つけられず、彼女は顔を焼いた。顔中、火傷の跡がついた。

それから導師のところへ行った。導師には、彼女が男か女か見分けがつかなかった。

そうして彼女は尼僧として受け入れられた。

そして、
彼女には、すっかり準備ができていた。
その探求は真正だった。
ある晩の偶然のようなアクシデントの出来事にふさわしかった。それを受けるに値していた。


尼僧、千代能は何年も学んでいたが、光明を得られずにいた。


ある晩、千代能は水をいっぱいにはった古い桶を運んでいた。

歩きながら、彼女は桶の水に映る満月を見つめていた。

突然、しめてあった箍がもろともにはずれ、桶はばらばらになって落ちた。

いっきに水が流れ、月の反映が消えた--


千代能は光明を得た。


彼女はこの句を詠んだ--

あれこれと、どうにか桶をとめてきた。
もろい竹が切れないように。
突然、底がぬけた。
水たまらねば月もやどらず--
わたしの手は空っぽ。

(とにかくにたくみし桶の底ぬけて、
水たまらねば、月もやどらず)




光明はいつも『突然』だ。

光明において、段階を踏むことはない。
段階を踏むこと自体が、マインドだからだ。

光明はマインド(思考)に属さない。

だからマインドに耳を傾けるなら、絶対に到達しない。

光明 enlightenment とは、
それに飛び込むか、
それに飛び込まないか、だ。


それが、起こったことだ。この尼僧、千代能は何年も学んでいたが、何も起こっていなかった。


マインド(思考)は、
神について勉強することができる、
光明について勉強することができる、
究極について勉強することができる。

マインドはすべてがわかったというふりをすることもできる。

しかし、神は理解するものではない。

あなたは、
それに飛び込んで、
それと一つになり、
それにならなくてはいけない。

これが、神(存在)を知る唯一の方法だ。


それがイエスが「神は愛のようだ God is like love」と言った--愛することではなく not loving、ただ but、愛のようだと just like love。

勉強をして偉大な学者や科学者になったとしても、愛についてはなにも知ることはできない。

愛は、あなたが愛する者になったときにだけ知られる。

愛だけになったときに。

愛 love は、あなたが空っぽの時にだけある。

知識 mind は、あなたがいっぱいの時にある。

知識はエゴ(欲 ego)に属する。


自分の内側に
ノーマインドそしてエゴがない、
空っぽの時にだけ愛だけになる。


千代能は勉学を重ねた。
だが『光明を得られずにいた。』

光明が難しいからではない、

光明について学習すれば、要点をまるごと取り逃がすからだ。まちがった軌道にいる。

それはまるで、
壁からこの部屋に入ろうとするようなものだ。この部屋に入るのが難しいのではない、扉から入らねばならない。


光明を得たければ、知識から始めてはいけない。
愛を知りたければ、情報を集めてはいけない。


光明を得たければ、瞑想になりなさい。
愛を知りたければ、愛になりなさい。


マインド(思考)とエゴ(欲)を落として…。


光明も愛も外側を探してもない、
それはあなたの内側の『源泉 source』にすでに「ある」。


それはずっとあなたを待っている。
その扉はずっと空いている。
その扉は待っている、
その扉は歓迎している、
その扉は受け入れている。


その扉はずっと空いて待っているのに、
あなたはずっと壁をノックし続けている。


その壁は知識だ。


知識(壁)mindからはけっして
光明(扉)には入れない。


知識を全部落とさなければ、
光明を得ることはできない。


『尼僧、千代能は何年も学んでいたが、光明を得られずにいた。』

当然だ。おかしいところはない。
彼女は外側を見ていた、学んでいたのだ。
壁をノックし続けていたのだ、
扉はずっと空いていて待っているのに…。

外側に光明はない、
内側に光明はある。

外側に意識を向けるとき、光明はない。
内側に意識を向けるとき、光明はある。

なぜなら、

あなた自身がすでに光明だからだ。

だから、

あなたの外側には光明はない。

光明とは『源泉』を『思い出す』ことだ、
その『源泉 source』は自分の内側にある、
だから、光明は外側にはない。

彼女は外側を見ていた、学んでいたのだ。
だから光明を得られない、当然だ。

経典などの知識からは光明は得られない。


誰もあなたに答えを与えない。

だから、誰のところにも行かないことだ。

あなたは、あなた自身の内側へ行くことだ。

導師 master とはあなたがあなた自身の内側へ行くことを見守る者だ。

導師 master があなたを光明にするのではない。


『ある晩、千代能は水をいっぱいにはった古い桶を運んでいた。』

あなたもまた、水でいっぱいになったとても古い、大昔の桶を運んでいる。それは考えごとでいっぱいになったあなたのマインドだ。

マインドはいつも古い、新しくない。
マインドは記憶だからだ。記憶がどうして新しくなるだろう?
マインドは過去だ。どうして過去が新しくなるだろう?

マインドは始終、繰り返しを好み、
いつも新しいものに反対する。

マインドは同じ間違いをいつも繰り返す。

マインド mind は古いが、
意識 consciousness からは新しいものが生まれる。

意識は自分の内側の中心にある『源泉 source』だ。

マインドは自分の外側の知識や情報のガラクタの寄せ集めだ。


『ある晩、千代能は水をいっぱいにはった古い桶を運んでいた。』

マインドは古い桶だ。
考えごとは水だ。

考えごとを大切にするあまり、
この古ぼけた桶を手放せずにいる。

あなたは考えごとにしがみつく。

知識や情報のガラクタの寄せ集めたものに執着する。

なぜ考えごとを、それほど大事にするのだろう?

あなたは考えることに中毒になっている。


千代能は勉強して勉強してマインドをいっぱいにして、
それはもっともっと水を古い桶に入れた…
彼女は光明を得られなかった。


『ある晩、千代能は水をいっぱいにはった古い桶を運んでいた。歩きながら、彼女は桶の水に映る満月を見つめていた。』

満月は天空高く、そこにあった。
そして水の中、桶の中にその満月は映っていた。

千代能は桶に映る満月を見ていた。

これは、みんなに起こっていることだ。

これはおとぎ話ではなく、逸話でもない。
これは事実だ--あなたにも起こっている。

あなたが満月を見たことは、これまで一度もない。

あなたはいつも、水の中〈自分の思考(マインド)〉に映った月を見る。
水に映し出された満月が本物の月だと、あなたは思い込んでいる。

映し出されたモノは幻想(illusion)だ。
その幻想(illusion)はマーヤ(maya)という。

映し出された満月は本物ではない。

本物の満月は、桶が壊れたとき(マインドが空っぽになった時)にだけ現れる--水が流れ出て、反映は消える。

マインドとは映し出す水面のような鏡だ。

本物を映し出しているだけの鏡だ。

鏡に映っているのは本物ではない。

マインドがあるうちは、
(鏡に映し出されたものを見ているうちは)
あなたは本物を見てはいない。

マインドに映し出された、
偽りの幻想を見ているだけだ。

ノーマインドになって、
(鏡という映し出すものがなくなって)
あなたははじめて本物を見る。


『突然、しめてあった箍がもろともにはずれ、桶はばらばらになって落ちた。』

突然それは起こった、偶然のように。

突然鏡が壊れたのだ。

この現象を理解しようとしなさい。


光明は予測できないため、いつも偶然のように起こる--自分で、どうにかすることはできないし、それが起こるよう、手配などできない。


引き起こそう、自分でなんとかしようとするなら、それはマインドのまやかしにすぎない。


光明は原因があって起こるものではない。

光明は、起こる。起こすものではない。


光明は、いつもアクシデントのように偶然のように起こる。

だが、わたしの言うことを誤解してはいけない。光明のために何もするなとは言っていない。

光明のために何もしなければ、
その偶然のようなアクシデントさえ起こらない。

その偶然は、そのためにとても尽くしてきた人たちにしか、起こらない。


あなた方の瞑想はすべて偶然のようなアクシデントの起こりやすさを、招待を創り出すためにすぎない。ただそれだけだ。


瞑想をやめてはならない。
偶然のようなアクシデントが起こるのではないかと考えてはならない。
それらをすると、光明はけっして起こらない。

また、
なぜ自分にはそれが起こらないのだろう…
と考えてはならない、
それは緊張を作り出す。
緊張をすると、光明はけっして起こらない。

ただ、リラックスしていなさい。

光明とはリラックスの状態だ。

リラックスの状態で光明は起こる。


偶然のようなアクシデントに、未知に備え、
準備し、待ち、受容的でいなさい。

さもないと偶然が訪れても通り過ぎていく。

招待がなければ客は来ない。


『突然、しめてあった箍がもろともにはずれ…』

それは突然起こった。だが彼女は働きかけてきた。

働き、学び、瞑想をし続けた。

千代能はすばらしい尼僧だった。彼女は学習し瞑想した。少なくとも30年か40年、導師とともにあった。そして、とほうもなく働いた。

美しい自分の顔を焼いて傷つけて尼僧になり、長い年月絶え間なく学び、瞑想した千代能には、すっかり準備ができていた。

その探求は真正だった。

偶然のようなアクシデントの出来事にふさわしかった。それを受けるに値していた。


『いっきに水が流れ、月の反映は消えた--千代能は光明を得た』

千代能は桶に映った満月を見ていた。
突然、桶の箍がはずれて桶が落ちて水がいっきに流れ、水に映し出された満月は消えた--それが引き金になった。

古いものが消え、新しいものが始まるところ。

あなたが生まれ変わるところには、つねにきっかけがある。

突然、いっきに水が流れ出て、そこには満月はなかった。これが引き金になった。

それで千代能は見上げたにちがいない--
そこには本物の満月があった。


この外側の現象と同じことが、千代能の内側でも起こっていた。

「すべてをマインドを通して見ていたのだった--マインドは鏡だった。」

突然、千代能はこの事実に気づいた。

マインドを通して見たものは、すべて幻だったと。

桶の箍がはずれて桶が壊れたように、
千代能の内側でもマインドが壊れた。


用意はととのっていた。
やることはすべてやった。
できることはすべてやった。
何も残ってはいなかった。
千代能には準備ができていた、
彼女はそれを受けるに値していた。


このありきたりの出来事が引き金になった。


『あれこれと、どうにか桶をとめてきた。
もろい竹が切れないように。
突然、底がぬけた。
水たまらねば月もやどらず--
わたしの手は空っぽ。』


『あれこれと、どうにか桶を留めてきた
もろい竹がきれないように…』

あらゆる手をつくし、自分のマインドをなんとかまとまるようにしてきた。
(光明を得ることと逆のことをやっていた)
マインドは幻であるから強くはない、それはもろい竹のようだ。


『突然、底がぬけた…』

偶然のようなアクシデントの出来事だった。
(気づきのきっかけが起こった)


『水たまらねば月もやどらず--
わたしの手は空っぽ…』

(水(マインド)に映った月は幻で、空(源泉)に在る月が本物だとわかった)

手中の空だ。
空を手にするとき、すべてを手にしている。
これがブッダ(目覚めた人、覚醒)だ。

空は否定的なものではなく、
もっとも肯定的なものだからだ。

あらゆるものが、無から生じるからだ。

このすべては、空から生まれる。

手中の空は、手中の源泉だ。



とても小さな種から、大きな木が生まれる。
どこからこの木はやってきたのだろう?

種を見てごらん、
それを割って、探してごらん。

種を割れば、そこに空が見つかる。

その空から、この大きな木はやってくる。

その空から、この全宇宙がやってくる--
無から在ることが生じる。



わたしの手は空っぽとは、
わたしの手にすべてがある--

あらゆるものが生じ、
そして戻って、帰っていくところ、
まさにその源泉がある、
ということだ。

これが光明だ。

そこに誰もいず、あなたさえいない空っぽな時、
あなたは源泉(神、存在とか愛)になっている。

これが、あらんかぎりのもっとも至福に満ちた瞬間だ。

この瞬間が不滅となる。
終わりがなくなる。
永遠になる。


それからは、あなたが他のちがうものにはなれなくなる。
(仮面やラベルを付けた偽りの自分にはもうなれなくなる、本来の自然な状態にしかなれなくなる。)

なぜならば、もはや、「私」はいないからだ。

水(マインド)を入れる「私」という器の桶がないからだ。


要点は、「私」が、「いるか、いないか?」だ。


千代能は突然、「私」がいないことを発見した。

手中の空を。




だが、覚えておくように。
これは千代能に起こったことであり、同じようには、あなたには起こらない。

この話を聞いて、あなたが千代能と同じように、桶を壊し水がいっきに流れ出て、月の反映が消えても、あなたの光明は起こらない。

あなたは千代能ではないからだ。

千代能に起こったことは儀式になるものではない。

しかし、多くの人々は1人に起こったことを真似して光明を得ようとし、儀式化してきた。

儀式的になってはいけない--理解しなさい。理解を原則にしなさい、唯一その原則だけに従いなさい。


光明 enlightenment を得るとは、

自分の内側にある『源泉』の
本来の自然な状態を『思い出す』かどうかだ、

それに「なる」のではない、
それを『思い出す』ことが「起こる」かどうかだ、

あなたはすでにブッダなのだから。

それを「忘れている」だけなのだから。

sammasatiサマサティ(right remembrance)
正しく想起する。

The last word of Buddha was, sammasati. 

Remember that you are a buddha – sammasati.




from osho talks
oshoの講話より

from osho transformation tarot
osho transformation タロットより

No Water, No Moon

Talks on Zen Stories

Talks given from 11/08/74 am to 20/08/74 am English Discourse series

CHAPTER1. NO WATER NO MOON

11 August 1974 am in Buddha Hall

英語のダウンロードpdfはこちら。



no water no moon

日本語に翻訳された本はこちら。

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sammasatiサマサティ(right remembrance)
正しく想起する。


『The last word of Buddha was, sammasati. 

Remember that you are a buddha – sammasati.』


瞑想と愛 meditation & love




beloved osho
prem mashal

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