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osho transformation tarot

A cup of tea

A cup of tea
 
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A cup of tea / 一杯のお茶
 
Bodhidharma's eyelids and the origins of tea
 
達磨の瞼とお茶の起源
 
 
 
commentary(解説)…
 
もっと目覚めよ
Be more aware. 
 
いつであれ自分が
『無意識』に行動していることに『気づいた』ら、
やめなさい。
 
ロボットになってはいけません。 
 
エゴ(欲・自我)から行動を起こしてはいけません。
 
一杯のお茶を飲み、目を覚ましなさい…
それから『覚醒』をもって行動しなさい。
 
 
 
osho…
 
茶は『目覚め』を意味する禅のシンボル(象徴)としてある。
 
茶はあなたをより敏感にし、自覚させる。
 
 
 
茶を発明したのは仏教徒たちだった。
何世紀にもわたり、
仏教徒は茶を瞑想 meditation に役立ててきた。
 
 
確かに茶は役に立つ。
 
 
茶を一杯、強いのを一杯飲んでから
坐って瞑想 meditation に入れば、
少なくとも一時間は眠気を覚えずに目覚めていられる。
 
あなたは、
静かにゆったりと坐ると、
必ず眠くなる。
 
この眠気を避けるために茶は役立ってきた。
 
 
 
茶の話はボーディダルマ菩提達磨)にはじまる。
 
ボーディダルマが(インドから中国へと渡り)
中国のTaと呼ばれる山で瞑想 meditation していたときのことだ。
 
このTaから英語のTeaが来ている。
 
この山の名前はTa以外にChaとも発音されていた。
 
インドでも茶は、
Chai(チャイ)とか
Cha(チャ)と呼ばれる。
 
 
 
ボーディダルマは瞑想 meditation していた。
 
彼は真に偉大な瞑想者だった。
 
彼は十八時間にわたって瞑想 meditationすることを好んだが、
これは実際大変なことだった。
 
くり返し、くり返し睡魔におそわれ、
そのたびに目蓋が閉じかかる。
 
そこで彼は、
目蓋を切って棄ててしまった。
 
こうなったらもう眼を閉じる可能性はない。
 
 
 
この話は美しい…
 
この目蓋が茶の最初の種となり、
そして
その種から草が生えてきた。
 
その葉を摘んで
世界ではじめて茶をたてたという、
そして
その葉を茶にして飲むと
かなり長い間油断なくあるままでいることができるので
彼は驚いた。
 
 
 
このことから
禅の人々は茶を飲むようになり、
茶はとても神聖なものになっていった。
 
 
 
禅の師が茶を出すというのは一つの比喩だ。
 
師は、「もっと目覚めよ」と言っている。
 
 
 
 
Tea is a Zen symbol which means awareness, because tea makes you more alert, more aware. 
 
Tea was invented by Buddhists and for centuries they have used tea as a help in meditation. 
 
And tea is helpful. If you take a cup of tea, strong, and then sit in meditation for at least one hour you will not feel sleepy, and you can remain aware. Otherwise, whenever you feel silent, and sit relaxed, sleep comes. To avoid sleep, tea has helped.
 
 
The story is that Bodhidharma was meditating on a certain mountain in China called "Ta". 
 
From that "Ta" comes the name "tea". 
 
That mountain can be pronounced as "Ta", or "Cha"; that's why in India tea is called "chai", or "cha".
 
 
Bodhidharma was meditating; he was really a great meditator. 
 
He liked to meditate for eighteen hours, but it was difficult. 
He would feel sleepy again and again, and his eyelids would drop, again and again. 
 
So he cut off his eyelids and threw them away, now there was no possibility of closing the eyes. 
 
 
The story is beautiful - those eyelids became the first seeds of tea, and a certain plant came out of them. 
 
Bodhidharma prepared the first tea in the world out of the plants, and he was amazed to find that if you took the leaves and drank them, you could remain alert for longer periods. 
 
 
So for centuries Zen people have been drinking tea, and tea has become a very, very sacred thing.
 
When a Zen master serves tea, it is a metaphor. 
 
 
He is saying: Be more aware. 
 
 
 
 
from osho talks
oshoの講話より
 
from osho transformation tarot
osho transformation タロット より
 
The Grass Grows By Itself
 
Talks on Zen
 
Talks given from 21.02.1975 am to 28.02.1975 am
English Discourse series 8 Chapters
 
Chapter 8 
Chapter title: A Field Dyed Deep Violet
28 February 1975 a.m. in Buddha Hall 
 
この全講話の英語のダウンロードpdfはこちら。
 
 
 
 
chapter 8 の和訳と英語の全講話です。
whole chapter 8 japanese & english
 
 
濃紫に染められた野辺
 
 
連歌師であり、仏教の帰依者でもある
蜷川新左衛門は
名高い一休禅師に入門を望み
京は紫野の大徳寺を訪れた。
玄関にて問答があった。
 
一休   「どなたかな?」
蜷川   「仏教帰依の俗にてござる。」
一休   「いずれから?」
蜷川   「和尚と同国なり。」
一休   「ふむ、あちらはこの頃如何かの?」
蜷川   「烏はかあかあ、雀はちゅんちゅん。」
一休   「そなた、今、何処にいるとお思いか?」
蜷川   「濃むらさきに染まる野辺に。」
一休   「なにゆえ?」
蜷川   「桔梗、槿、萱草、紫蘭。」
一休   「それらが去りし後は?」
蜷川   「宮城野、秋、花開きし野なり。」
一休   「宮城野にて、何が起こる?」
蜷川   「水は流れ、風わたり申す。」
 
 
禅師はその禅風にいたく驚き
蜷川を奥間に通して茶をもてなした。
 
その折詠まれた歌は
 
「何をかな参らせたくな思へども
    達磨宗には一物も無し」
 
蜷川、応えて詠む
 
「一物も無きをたまはる心こそ
    本来空の妙味なりけり」
 
深く心動かされた禅師が言った
 
「そなた、多くを学んできたものよ…」
 
 
 
 
神学より、
詩のほうが宗教に近い。
 
理性より、
想像のほうが宗教に近い。
 
そして
 
当然のことながら、
宗教はその両方を超越する。
 
そのどちらでもない。
 
 
 
論理を通して
宗教の深淵に落ちていくことは
いささか難しい。
 
論理は
宗教に関して堅苦しいからだ。
 
論理には
柔軟性がなく、
閉じている。
 
ひらいていない。
 
論理には
窓がないし、
自分自身のなかから出ていこうにも
戸口がない。
 
まるで墓だ。
 
人はそのなかで
死ぬことはできるが、
 
生命的な流れの方向に進むことはできない。
 
論理を通して
生き生きとなることはできない。
 
論理は
縞模様の囚人服、獄舎だ。
 
 
 
詩は
宗教により近いところにある。
 
なぜなら
 
詩には
もっと柔軟性があり、
液体のように流動的だからだ。
 
詩は
宗教そのものではない。
 
だが
 
論理と比べると、
ずっと簡単に抜け出せる。
 
戸口や窓のような開口部が
詩にはある。
 
そしていつでも
さわやかな風が、
詩人の心の内奥の深みにまで
そよぎ渡ることができる。
 
 
詩には
堅苦しさがないから、
あなたがもしそう望むなら
いつでもそこから抜け出せる。
 
しがみつくことはない。
 
そして想像力が豊かだから、
知らず知らず未知なるものに出喰わすこともある。
 
 
詩は
暗闇を手探りしながら行く。
 
暗闇での手探りが
詩だとも言える。
 
 
詩は
その手探りを、
暗中模索を
ずっとずっと続けていく。
 
 
だから常に、
どんな新しい次元の内にも
入っていく用意ができている。
 
 
 
論理は
抵抗する。
 
論理家以上に
正統的(オーソドックス)な人たちを
あなたは見つけることができない。
 
彼らは
新しい次元が開かれるのに
耳を傾けようとしない。
 
それを見ようとさえしない。
 
彼らは
簡単に
そんなことは不可能だ
と言って片づける。
 
可能なことは全て、
と彼らは考える、
 
全て既に知られているではないか、
起こり得ることは全て既に起きているではないか、
と考える。
 
彼ら論理の人たちは、
いつも未知に対して
疑い深い。
 
 
 
詩人のハートは常に
〈未知〉と恋に落ちている。
 
詩人は
いつでも
何か新しいものを求めて
暗闇を手探りしていく。
 
何か独創的なもの、
何か今までに味わったことのないもの、
何か今までに遭遇したことも経験したこともないようなもの、
 
詩人は
それを求めて手探りする。
 
そして時折
〈未知〉にぶつかり、
宗教の深淵に落ちていくこともある。
 
 
詩は
暗示的だ。
 
詩は
比喩や暗示を通して生きる。
 
 
同じことが
宗教の言語にも言える。
 
 
もちろん
比喩が
 
詩的な方法で使われるときには、
何か〈あること〉を暗示し、
 
宗教的に使われるときには
全く別な何かを暗示する。
 
 
しかし
両方とも
比喩を用いることに変わりはない。
 
だから
そこには2つが出会う地盤があるのだ。
 
それぞれが暗示する意味は違っていても、
その手法は
同じファミリーの一員で
双子のようなものだ。
 
 
しかし
その内側にある違いは
とてつもなく大きい。
 
 
だが少なくとも、
表面的なかたちの上では
2つの間には
論理と宗教の
間にあるほどの隔たりはない。
 
 
この類似のために、
宗教は今まで詩人のようなやり方で話をしてきた。
 
カヴィールや
ミーラ
そして
禅の詩人たち
みんなそうだ。
 
 
 
禅の人たちは美しい俳句を残している。
 
俳句のなかでは、
その深い凝縮のゆえに、
広大な詩の世界が一粒の種のようになる。
 
時には非常に単純になっているから
すぐにはその意味を掴むことはできない。
 
たが
句を熟考し、
瞑想 meditation していけば、
 
少しづつ、
 
その小さな句が
1つの扉となっていく。
 
 
2、3日前、私は芭蕉の有名な俳句を読んだ。
とても小さな詩だ。
が、
この句について瞑想 meditation すれば、
あなたにも扉が突如開かれるだろう。
その俳句というのはこれだ。
 
 
 
” 古池や蛙飛び込む水の音 ”
 
 
 
この情景を眼に浮かべてみてごらん。
 
古い古い池…
 
蛙が一匹ぽーんと飛び込む…
 
その、水の音…
 
これで終わりだ。
他に何も言うことはない。
 
その状況全体が
ここに凝縮されている。
 
 
あなたもこの句について瞑想 meditation すれば、
知らない間に、
静けさが、
沈黙が、
自分を取り巻くのを感じるだろう。
 
何かがあなたの内部で変化していく。
 
これは『客観芸術』なのだ。
 
(客観芸術と主観芸術は違う)
 
 
 
禅の詩人たちや
スーフィーの神秘家たち
ヒンドゥの聖者たちは
みんな
詩の言語で話してきた。
 
そして
 
たとえ
ゴータマ・ブッダ
マハヴィーラや
エス
詩の言葉で話さないとしても
その言葉の内には『詩情』がある。
 
人はある種の詩的な質のものを
彼らの言葉の内に感じとる。
 
彼らの言葉が
散文的であるのは
表面だけだ。
 
かたちは散文的でも、
その背後の精神(スピリット)は
詩の精神だ。
 
 
実際、
解脱に達した人(光明 enlightenment)は、
そう語る以外語りようがない。
 
もし普通の散文体で語らなければならないなら
そのように語ることもできる。
 
だが
それでも『詩情』を避けることはできない。
 
詩は
表面のすぐ下に潜んでいる。
 
もしあなたに少しでも洞察力があったら、
その『詩情』がわかるだろう。
 
それは活き活きと生気に満ちてそこに在る。
 
 
宗教と詩は
同じ言語域の内にある。
 
 
使う言葉は違うが、
どこかで出会う点を持っている。
そして
この出会いの点こそ
この逸話の主題になっている。
 
 
 
1人の詩人が
1人の禅師に会いに来る。
 
この詩人は非常に偉大な詩人だったにちがいない。
なぜなら
最も深遠なところにまで達した
偉大な詩人たちだけが、
神秘家との出会いの基盤を持っているからだ。
 
詩人だからといって
誰でもそれを持てるとは限らない。
 
詩が究極の極みにまで至ったところに、
神秘の世界の第一歩がある。
 
詩の世界が
絶頂に達して終焉するところ、
その頂点に、
そのグリシャンカールに、
そのエヴェレスト(最高の頂き)に
辿りついたところに、
神秘の世界の寺院への第一歩がある。
 
最も高遠な詩は、
1番低いところの〈神秘〉だともいえる。
 
そこが出会いの地点になる。
 
だから、
最も深遠な詩人たちだけが、
禅師にこのように
言わせるほどの高みをかち得るのだ。
 
 
『そなた、多くを学んできたものよ…』
 
 
 
 
 
さて、この逸話のなかに入っていこう。
 
 
連歌師であり、仏教の帰依者でもある
蜷川新左衛門は
名高い一休禅師に入門を望み
京は紫野の大徳寺を訪れた。』
 
 
これは私がいつも感じてきたことだが、
詩人のなかでも
最も偉大な詩人たちは、
宗教を避けて通ることはできない。
宗教的な世界に入らざるをえない。
 
というのは、
 
詩は
ある点にまでは引っぱっていくが
そこを超えると宗教の世界になるからだ。
 
 
詩人として在ることに徹底すれば、
人は宗教的になっていく。
 
詩の世界の最果てまで旅していなかったら、
詩人は詩人であり続けることはできる。
 
だから
ちっぽけな詩人たちだけは
詩人としてとどまる。
 
が、
 
偉大な詩人たちは、
宗教の世界に必ず入っていく。
 
これは避けられないことだ。
 
なぜなら
詩が終わり、
宗教が始まる、
そういう地点が来るからだ。
 
その限界点にまで至ったら、
それからどこへ行く?
 
そこに至った瞬間、
詩は
自身を宗教に転向させる。
 
人はそれに従わざるをえない。
 
 
同じことが
論理家や科学者たちにも起こる。
 
たが
その起こり方はちょっと違う。
 
科学者にも、
一貫してどんどん進み続け徹底していくと
ある瞬間がやってくる。
 
道路がもうどこにも向かっていないような、
袋小路に入ったような感じになる。
そこには奈落が口を開けていて、
前に進む道はない。
 
 
詩人の場合はこれとは違う。
 
 
前に道があることはあるのだが、
それはもう『詩情』の道ではない。
 
詩人の道は
自動的に宗教世界の道に変身する。
 
しかし
 
科学者や論理家、哲学者には
それはまったく異なった起こり方をする。
 
彼らは行きづまり
道路はただそこで終わるだけになる。
それ以上もうどこにも行けない。
道がないのだから。
そこは崖っぷち、奈落だ。
 
 
このことが起こった。
 
これは最も偉大な人たちにしか起こりえない。
 
同じ道を歩いたとしても、
ちっぽけなマインド(思考)はけっして
袋小路にまでは至らない。
道の途中で死んでいく。
その道路がどこかへ連れていってくれると
信じながら死んでいく。
道がまだ前にずっと続いて見えるからだ。
 
変身は
偉大な人たちにだけ起こる。
 
アインシュタインはその晩年に至って、
自分の一生は無駄だったと感じ始めた。
 
ある人が彼に訊いた。
 
「もし生まれかわるとしたら
あなたは何になりたいですか。」
 
 
「けっして科学者にはならない。
配管工のほうがましだ。
もう2度と科学者はごめんだね。
終わったんだ!」
 
その生涯の最後になって
彼は神について考え始める。
 
 
神…
生命の究極的な意味、
神秘のなかの神秘について考えだしたのだ。
 
そして言っている。
 
「存在の神秘に深く浸透していけばいくほど
私はますます強く
その神秘は永遠に終わりがなく
無限だと感じるようになった。
知れば知るほど
私は自分の知識について確信が持てなくなった。」
 
 
〈神秘〉は広大無辺だ。
尽きるところを知らない。
これこそ
神の概念とは何であるかを語るものだ。
 
神秘的なるもの
広大なるもの
尽きるところを知らないもの…
 
あなたは知るということができるから
もっともっと知っていく。
 
が、それでもなお、
それは〈未知〉としてとどまる。
 
 
あなたはその内側に入っていく。
内へ内へと入っていく。
 
それでもあなたは縁を動き回っているにすぎない。
 
そして
内側に落ちこみ続けてもそこに底などない。
 
あなたは〈神秘〉の中心にはけっして
行き着くことはできない。
 
あなたが
「私は全てを知った。」
と言えるような瞬間はけっしてこない。
 
誰もそんなことを言ったことはない。
 
愚か者を除いては。
 
 
賢い人はますます
自分の無知を感じていく。
 
 
愚かな人々だけが
少しばかりのものを
あっちこっちから寄せ集め
それで自分たちが知っていると思いこむ。
 
愚か者だけが「知る人」であり
「知識」を主張する。
 
 
科学者の研究の世界でさえ、
道が行き止まりになる瞬間がやってくる。
と、
そこで突然ジャンプが起こる。
 
だが、
詩人は
ジャンプなしで
宗教の世界に入っていける。
 
そっと滑り入るだけでいい。
 
2つの道は繋がっているのだから。
 
 
科学者はジャンプしなければならない。
360度の全面的な反転をしなければならない。
上から下へ
内から外へ
外から内へと
トータルに回転しなければならない。
 
しかし
 
詩人はただ滑り移るだけでいい。
古い皮から滑り脱ける蛇のように滑り移る。
 
だから私は、
詩のほうが
宗教により近いと言うのだ。
 
 
 
この蜷川新左衛門という男は
非常に偉大な詩人だったにちがいない。
だからこそ
禅に
瞑想 meditation に
心魅かれるようになったのだ。
 
もし
詩が
人を瞑想 meditation に導くようなものでないとしたら
それは詩ではない。
 
せいぜい言葉の巧みな構成ぐらいであって
その内部には詩は入っていない。
 
有能な言語学
言葉構成の名人
有能な文法学者か
あるいはまた
詩はどのように書くべきかのあらゆる法則を知ってている人
そういう人はあり得ても
詩人ではない。
 
なぜなら
 
詩の最も奥深い中核に在るものは
瞑想的な何かだからだ。
 
 
詩人は
作詞家ではない。
 
詩人はヴィジョンを掴む者であって
作詞構成などしない。
 
詩は
ある瞬間
詩人の内側に起こる。
 
 
それは瞑想的な瞬間だ。
 
 
実のところそれは
詩人が「そこにいないとき」詩は起こる。
 
 
詩人がまったく「不在」であるとき
突然
何か、未知の世界の何かが
彼のなかに入ってきたのだ。
 
さわやかで新鮮なそよ風が
詩人の家に入っていく。
今や
彼はそのさわやかな風を言語に翻訳しなければならない。
 
 
詩人は
作詞者ではない。
 
詩人は
翻訳家なのだ。
 
詩人は
翻訳する。
 
詩人の
存在の内部で何かが起こり
詩人は
それを言語に、言葉に訳していく。
 
言葉でない「何か」が
詩人を
内側から動かす。
 
それは「フィーリング(感じ)」のようなものに似ていて
「考えたこと」ではない。
 
それはマインド(思考)よりも
むしろ
ハートの中にある。
 
 
 
詩人は
勇気がある。
 
ハートで生きるということは
深い勇気が要る。
 
勇気(courage)という言葉はおもしろい。
 
これはラテン語の cor から来ているが
cor というのはハートという意味だ。
 
勇気(courage)は cor に語源をもち
cor ハートを意味する。
 
だから勇気があるということは
ハートで生きるという意味になる。
 
 
 
弱い人間、弱虫だけが
マインド(思考)で生きる。
 
ビクビクと怖いものだから
自分のまわりに論理という保護壁をこしらえる。
 
何もかも恐れているから
思弁や概念
言葉や理論
そういったもので窓や戸口を全部閉ざし
その中に自分自身を隠しておく。
 
 
 
ハートの道は勇気の道だ。
それは
無防備の内に生きることであり
愛と信頼の内に生きること
未知なるものに向かって進んでいくことだ。
 
過去に別れを告げ
未来を在らしめようとすることだ。
 
 
勇気とは
危険な路を歩むこと。
 
生は
危険に満ちている。
 
 
臆病者は
その危険を避けることもできようが
しかし
それではもう死んでいるも同然だ。
 
 
活き活きと生きている人
本当に生きている人
生気にあふれて生きている人
こういう人は
必ず未知に向かって進む。
 
そこには危険がある。
しかし
そういう人は敢えて危険を冒す。
 
 
ハートはいつでも
危険を冒す用意ができている。
 
ハートはギャンブラーだ。
 
 
マインド(思考)はというと
これはビジネスマン。
 
マインド(思考)は
常に計算している。
 
 
マインド(思考)はずる賢い。
一方
ハートは計算は全然ダメだ。
 
 
 
この英語の courage(勇気)という言葉は
とても美しい。
 
それは実に興味深い。
 
ハートを通して生きる
というのがその意味だ。
 
 
 
詩人は
ハートを通して生きる。
 
そして少しづつ
そのハートの内側で
詩人は
〈未知〉の音を聴き始める。
 
 
 
マインド(思考)には
それを聴くことはできない。
 
マインド(思考)は
〈未知〉からは遠く遠く離れている。
 
マインド(思考)には
既に知られたものが
いっぱい詰まっているのだ。
 
 
 
あなたのマインド(思考)にあるものは
一体何かね?
 
 
 
それは全て
あなたがもう知ってしまったことだ。
 
それは
過去のこと
死んでしまったこと
もう消え去っていることだ。
 
マインド(思考)の中身は
蓄積された過去
つまり
「記憶」以外の何ものでもない。
 
 
 
ハートは「未来」であり
ハートは常に希望そのものだ。
ハートはいつも未来のどこかにいる。
 
 
マインド(思考)は「過去」のことを考える。
ハートは未来を夢見る。
 
 
 
あなたがたにはっきり言っておこう。
「現在」は「過去」より「未来」に近いということを。
 
だからこそ私は
詩人のほうが
宗教に近いところにいると言うのだ。
 
 
 
 
哲学や論理
形而上学や神学
そして科学
これらは全て「過去」に
既に知られているものに属する。
 
 
音楽
舞踏
美術
こういった芸術の全ては
「未来」に属する。
 
 
宗教は「現在」に属している。
 
 
 
 
そして言っておくが
「未来」は「過去」より「現在」に近い。
 
なぜなら
「過去」はもう過ぎ去っているからだ。
 
「未来」はこれから来るもの
やがては存在することになるものだ。
 
 
「未来」にはまだ可能性がある。
それは必ず来るものだし
すでに来つつある。
 
 
どの瞬間も「現在」になっていく。
 
一瞬ごとに
「未来」は「現在」になるし
「現在」は「過去」になる。
 
 
「過去」には可能性は全くない。
「過去」はもう使用済みだ。
あなたは既に「過去」から遠ざかっている。
もう使い尽くされたのだから。
「過去」とは死物、墓のようなもの。
 
だが
 
「未来」は一粒の種にも似て
来つつあるもの
永遠に来つつある。
「未来」は常に「現在」に到達し
「現在」と出会う。
 
 
 
あなたは常に動いている。
 
 
 
「現在」は
「未来」の中に入っていく1つの動きにほかならない。
 
それは
あなたがすでに踏み出した一歩であり
その一歩は「未来」の中に向かっている。
 
 
 
そして詩は
可能性や希望
夢に関わるものであり
「現在」のより近くに在る。
 
 
 
この男、蜷川は偉大な詩人だったに違いない。
 
なぜ私は偉大な詩人だったに違いないと言うのか?
 
私は蜷川の歌を読んだこともないし
蜷川が何を書いたかも知らない。
それでもなお
私はこの男は偉大な詩人に違いないと言う。
 
それは
蜷川が禅に関心を寄せたからだ。
 
それだけではない。
蜷川は
 
 
一休禅師に入門を望み』
 
 
禅に興味を持つだけでは充分ではない。
 
弟子 disciple にならないかぎり
それは不充分だ。
 
 
宗教に関心を寄せるだけでは足りない。
 
関心を持つことは良いことだが
それだけでは深遠にはならない。
 
関心は好奇心としてとどまり
マインド(思考)の産物で終わる。
 
心身を投入するまでにジャンプしないかぎり
弟子 disciple にならないかぎり
マインド(思考)の産物としてとどまるだけだ。
 
 
弟子 disciple になるということは
1つの大きな決断だ。
並の決心ではない。
それは、非常に難しい、
ほとんど不可能に近い決断だ。
 
私がいつも言っているように
弟子 disciple になるということは
最も不可能な革命だ。
 
なぜなら
 
人間が
どうやって
他者を『信頼 trust』できようか?
 
自分の生命を
どうやって
他者の手に委ねられよう?
 
これは最も不可能に近い革命だ。
 
 
 
だが、これは起こる。
 
 
 
そして
これが起こったときには実に美しい。
 
他に比べるものなどないくらいだ。
 
 
 
そして
並々ならぬ勇気を持った人たち
大胆不敵な人たち
そういう人たちだけが
この一歩を踏み出せる。
 
これは臆病者には向かない。
それに
頭でっかちの
マインド(思考)指向の人たちにも難しい。
 
これはハートで生きる人たち
勇気があって
危険を冒せる人たちのためのものだ。
 
これはこの世で最大のギャンブルだ。
あなたは自分の命の全てを賭けるのだから、
自分自身を誰かに差し出してしまうのだから。
 
あなたは
その人がどういう人か知らないし
知ることもできない。
何かを感じることはあるかもしれない。
 
だが
導師 master に関してはっきり納得いくことなどまるでない。
疑念は常にとどまる。
 
しかし
疑念にも関わらず
人はジャンプして踏み出さねばならない。
疑念が晴れることはけっしてない。
隠すことはできても
自分の内部のその疑っている部分を
説得することはできない。
 
 
どうやって説得する?
 
 
あなたはただ導師 master と共にいなければならない。
そうすることによってのみ
疑念は消えていく。
 
それは以前はとても不可能だ。
 
 
 
 
『体験』だけが疑念を消すのに役立つ。
 
 
 
 
だから
説得などできるものではないだろう?
 
 
マインド(思考)は常にためらう。
私のところへは
いろいろな人たちが来るが
自分は躊躇している
五分五分の感じだと言う人たちがいる。
どうしたらいいでしょう?
サニヤスを受けるのは待つべきでしょうか?
(サニヤス: 弟子 disciple になること)
 
 
ところがもし待つとしたら
彼らは永遠に待つことになる。
 
 
もし彼らが
マインド(思考)が100%納得できる時がきたら
ジャンプしようと考えているとしたら
そんなジャンプはけっしてできない。
 
なぜなら
マインド(思考)には
何かを100%肯定するなど
絶対にできないからだ。
 
 
 
 
それがマインド(思考)や性質だ。
 
 
 
 
マインド(思考)は
いつも「分割」され「断片的」だ。
トータル(全一)』ではありえない。
 
 
ハートとマインド(思考)の違いは
ここにある。
 
 
ハートは『全一性(トータル)』があるが
マインド(思考)は常に「分断」されている。
 
 
マインド(思考)とは
あなたの存在の「別たれた部分」であり
 
ハートとは
『別たれていない』存在だ。
 
 
 
弟子 disciple として在ることは
ハートから来るものだ。
 
マインド(思考)の方は
だらだら話し続け
疑い続け
そして邪推する。
 
それにも関わらず
そのお喋りマインド(思考)にも関わらず
人はジャンプして、翔ぶ!
 
「にも関わらず」と私は言っている。
 
なぜなら
これこそ唯一の方法だからだ。
 
 
 
 
マインド(思考)の言うことに
耳を傾けないでいなさい。
 
マインド(思考)の下をくぐり
ハートまで行きつくがいい、
ハートに訊ねるがいい。
 
 
 
 
弟子 disciple として在るというのは
恋に似ている。
 
ビジネスでパートナーを組むといったものでも
契約を交わす関係でもない。
 
あなたはただ単に与える。
何かが起こるかどうか知ることもなく。
 
お返しをもらえるかどうかは分からない。
 
あなたはただ単に与えるだけだ。
 
だからこそ
それは勇気なのだ。
 
 
蜷川は
禅に関心を持っていただけではない。
 
蜷川は
禅に『献身』する者
禅を熱愛する者だった。
 
関心
好奇心
詮索
これはマインド(思考)の産物だ。
 
だが
『献身』はハートのものだ。
 
 
『入門を望み』
 
 
「弟子 disciple になる」とは
どういうことなのだろうか?
 
それは何を意味するのだろう?
 
それはこういうことだ。
 
 
私はやってみました、
が、
失敗した。
 
私は探し求めましたが、
が、
見出せなかった。
 
やれることは全部やりましたが、
同じ自分のままです。
 
変身は私に起こっていない。
 
ですから私は
降伏して全てを委ねます。
 
今は導師 master が決めてください。
私が決めるのではなく。
私は影のように師に従います。
導師 master の言うことは何でもやります。
そして、なぜかとは問いません。
導師 master はまず私を納得させるべきなどと求めません。
反論することなく、ただ従っていきます。
深い『信頼』の内に。
 
 
マインド(思考)は依然まくし立てるかもしれない。
 
「お前は何をやっているんだ?
これはうまくない。
こんなことが何になる。
バカげてる、狂ってる!」
 
マインド(思考)はこんなことを言い続けるだろう。
 
 
しかし
ひとたび弟子 disciple として在ろうと決意したら
もうあなたはマインド(思考)に耳傾けることはない。
導師 master の言うことに耳傾けることだ。
 
 
今まであなたは
自分の
マインド(思考)
エゴ(欲・自我)
の言うことに耳傾けてきた。
 
 
これからは
導師 master に耳傾けるがいい。
 
今や導師 master があなたのマインド(思考)になる。
 
 
 
これが弟子 disciple たることの意味だ。
 
 
 
あなたは自分自身を脇に置き
導師 master があなたの存在の最も深い中核にまで
浸透するに任せなさい。
 
あなたという存在はもうない。
 
導師 master だけだ。
 
弟子 disciple として在るということは
影として在ることで
あなたのエゴ(欲・自我)は
完全に脇に置かれる。
 
 
『一休禅師に入門を望み
京は紫野の大徳寺を訪れた。
玄関にて問答があった。』
 
 
禅の逸話には非常に深いものがある。
一語として
無駄な言葉は使われない。
 
 
玄関にて問答があった。』
 
 
この問答とは『対話 dialogue』ということだ。
 
『対話 dialogue』とは
単に話をすることでも
話し合うことでもない。
 
議論でも
討論でもない。
 
『対話 dialogue』には
それらとは違う特質がある。
 
 
『対話 dialogue』とは
2つの存在が出会うことだ。
 
 
愛の内で出会い
互いを理解しようとする慈しみの内で出会う。
 
議論するのでもなく
ディスカッションするのでもなく
 
ただきわめて
思いやりのある姿勢を持った出会い
 
それが『対話 dialogue』だ。
 
 
『対話 dialogue』とは
相手の存在に『参加』して
存在を共にすることだ。
 
 
2人の友人どうし
2人の恋人どうしが
 
何の敵対心もなく
自分が正しい、相手は間違っている
と努力して証明しようとすることもなく、
 
ただ存在を共にすることだ。
 
 
よくあることだが
人と話をしている間
 
あなたは微妙なやり方で
 
自分が正しいことを証明しようとし続ける。
 
そして
相手もまた
自分の正しさを立証しようとする。
 
そうなったら
『対話 dialogue』は不可能だ。
 
『対話 dialogue』とは
開かれたマインド(思考)で
相手を『理解』しようとする
という意味なのだ。
 
『対話 dialogue』は稀有な現象であり、美しい。
 
なぜなら
『対話 dialogue』を通じて双方が豊かになるからだ。
 
実際、あなたは話をする。
それはディスカッション…「対立」し合って、
私が「正しい」
あなたが「間違っている」
と証明しあう言葉の闘いか、
それとは全く違う対話かのどちらかになる。
 
 
『対話 dialogue』は
相手と「対立」するのではなく
むしろ
互いに手を取り合い助けあって
〈真理〉への道を見つけようと動き出すことだ。
 
それは一体となること、協力し合うこと。
 
〈真理〉を見出すための調和のとれた努力だ。
 
それは、どんな形であれ絶対に「闘い」ではない、
それは、『友情』だ。
 
〈真理〉を共に見出そうと一緒に動き、
〈真理〉を見出すために助け合う『友情』だ。
 
 
誰もすでに〈真理〉を得ている者などいない。
 
だが
2人の人間が共に〈真理〉を見出そう、探求しようと始めたら、
それこそが『対話 dialogue』であり、
2人ともそれによって豊かになる。
 
そして
〈真理〉が明らかになったときに、
それは
私のもの、あなたのもの、
ということにはならない。
 
〈真理〉が顕れるとき
それは
探求に参加した2人より大きく高く、
2人ともそれに包まれてしまう。
 
そして
それによって2人とも豊かにぬる。
 
 
『対話 dialogue』は
導師 master と弟子 disciple の関係の始まりだ。
 
 
それは入口で起こらなければならないものだ。
それなくして寺院の内に入ることはできない。
 
 
『玄関にて』
 
 
という言葉があるのはこのためだ。
 
門口で起こらなければ意味がない。
 
最初が『対話 dialogue』なのだ。
 
もしそれが起こらなかったら、
そのときには
どんなかたちの入門もあり得ない。
 
そうだったら
一休は玄関のその場でサヨナラを告げていただろう。
 
なぜなら
その人を寺の内に招き入れる必要は全くないからだ。
そんなことをするのは全く無意味だからだ。
 
だからこそ
玄関で、玄関の上り口に坐って
この『対話 dialogue』は起こったのだ。
 
 
 
一休はこの男を『感じ取ろう』とした。
この男を『感じ』、
その潜在する可能性や能力を
またその姿勢を
『感じ取らなければ』ならなかった。
 
 
 
この男の求道はどのくらい深いのか?
求道の熱意はどのくらい強いのか?
単なる好奇心だけではないだろうか?
この男はただの「知識人」だろうか?
それとも本物の『求道者(サニヤシン)』なのか?
 
 
一休は蜷川の存在を『感じ取ろう』とし、
蜷川はそれを受け容れた。
 
 
蜷川は一休の試みに参加し、
それを共にした。
 
蜷川はそれを怖れることなく、
自分を守ろうともしなかった。
 
蜷川は自分が
自分以外の何者かであるような
フリをしようとはしなかった。
 
蜷川は
自分のハートを一休に対して
完全に開いた。
 
そして
一休が自分の内側に入り、
自分を『感じる』ことを受け容れた。
 
なぜなら
導師 master はこのようにして
人が偶然にここを訪れたのか
それとも
本当に訪れたのか
それを知り定めなければならないからだ。
 
 
訪れは偶然なされることもある。
誰かがあなたに
誰それという導師 master のことを語り、
あなたはたまたまその近くを通りかかる。
するとあなたはこう考える。
 
ああ、まだ映画に行くまでに時間があるから、
ちょっと寄って
どんな導師 master か見てみよう。
 
もし偶然の訪れであるから、
その関係は入口のところで
終わりにした方がいい。
 
どこへも行き着きはしないから。
 
もしマインド(思考)が議論好きなら、
マインド(思考)が自分の考えでいっぱいなら、
あなたは学生 student にはなれるが、
弟子 disciple にはなれない。
 
 
 
 
導師 master は
教師 teacherではない。
 
導師 master は学生 studentを求めているのではない。
 
学校を経営しているのではない。
 
導師 master はハートの寺院を創り出している。
ハートの神殿を作って、
聖なる、神聖なる現象を
この地上にもたらそうとしている。
 
 
 
 
一休は『感じ取らなくては』ならなかった。
そして
非常に深いところまで『感じ取った』。
この男蜷川は、その気概を証明した。
本物だった。
 
蜷川は反応しなかった。
蜷川は導師 master 一休に応答した。
 
そして導師 master の問い求めたこと全てに、
彼は全面的(トータル)に応答した。
 
これらの応答は美しい。
 
ゆっくり辿っていくがいい。
 
 
玄関にて問答があった
 
一休   「どなたかな?」』
 
 
これこそ、求道の全てだ。
 
あなたは誰か?
 
宗教は全てこのことのためにある。
 
 
もしあなたが、
自分が誰かをすでに知っているのだったら、
それなら入門など気にすることはない。
 
 
それとも、
もしあなたがその無知ゆえに、
自分の存在を、
「名前」や「姿かたち」で確認しているとしたら、
「名前」や「姿」と『自身』を〈同化〉させすぎて、
それで中身がいっぱいになっているとしたら、
あなたは、
一休ほどの導師 master に受け容れられるほど『成熟』していない。
 
 
もっとレベルの低い導師 master に行った方がいい。
 
 
いや、導師 master というより、
「人間とは名前でも形でも肉体でもない」
などと教えてくれる教師 teacher のもとに行けばいい。
そういう教師 teacher に、
導師 master が種を植えつけられるような
哲学的な土壌を作ってもらうことだ。
あなたは教師 teacher のもとに行く必要がある。
 
 
だから
一休がまず初めに訊いたのは、
あなたは誰か?
ということだった。
 
 
蜷川は応える。
 
 
仏教帰依の俗にてござる』
(仏法に帰依する者です)
 
 
これは
自己主張のない本当に謙虚な態度だ。
 
蜷川は自分の「名前」を言わなかった。
 
 
私は蜷川です、ご存知でしょう?
私の歌人としての名声を聞いたことはないですか?
書物を読まないんですか?
なんてバカなことをこの人は訊くのだろう、
私が誰かかって?
国中の者が私を知っているのに。
帝位にいる方でさえも…
 
 
詩人というのは、
ひじょうにエゴイスティックな人種だ。
詩人、作家、小説家、
彼らはみな、
結晶したエゴ(欲・自我)の持主だ。
 
文学に関わる人たちほど
エゴイスティックな人たちは他に見つからない。
 
彼らとはどんな『対話 dialogue』もきわめて難しい。
 
彼らはもうすでに「知っている」。
他人にこそすれ、
教わろうとはしない、
いや、できない。
 
ただ何行か文字を組み立てられるというだけで、
小説やお話が書けるというだけで、
彼らは自分たちが「特別な何者か」であるような気になり始める。
 
 
 
 
ところが実際は、
真の詩人にエゴ(欲・自我)は全くない。
 
 
 
 
もし詩人に、
結晶した強いエゴ(欲・自我)があるとしたら、
その人は詩人ではない。
 
なぜなら
その人は
自分の詩から何一つ学んでいないからだ。
 
その人は
詩とは己れがないときにのみ降臨する、
という基本的な〈真理〉さえ
まだ会得していない。
 
だから、
詩作しなければいられないし、
何かを為さなければいられない。
 
 
詩文は一つのテクニックでもあり得るから、
その人はテクニシャンかもしれないが、
詩人ではない。
 
美しい言葉にリズムをつけてアレンジすることはできるかもしれないし、
あらゆる法則に従って完璧な詩を作るかもしれない。
 
しかし
それは詩人ではない。
 
上手な詩、
技巧的には精確な詩を作るかもしれない。
 
だが、
もしその奥の深いところにエゴ(欲・自我)が依然あるとしたら、
その人は詩とは何かを知らない人だ。
 
なぜなら
詩が生まれるのは
己れがいないときだけだからだ。
 
実際、偉大な詩人は、
この詩を作ったのは自分だと主張しない。
 
どうしてそんな主張ができよう?
 
その詩が生まれたとき
自分はいなかったのだから。
 
 
 
偉大な詩人の1人コールリッジが死んだときのこと、
彼は4万にも及ぶ未完の詩句を残して死んだという。
彼は詩作し初めにはするものの、
3行ほど書くとふっとやめてしまう。
何年も経ってから、
突然ある日に、
それに2行ほど書き加え、またふっとやめる。
4万に及ぶ未完の詩だ!
死ぬちょっと前、ある人が彼に訊ねた。
 
「これは一体どういうことですか?
こんなに素晴らしい美しい詩句ばかりなのに、
なぜ完成させないんですか?」
 
すると彼はこう言った。
 
「どうやって私に完成できる?
あれは私が書いたものではない。
 
来たんだ。
 
あれは来るときは来る。
来ないときは来ない。
 
私に何ができよう。
引っぱって来れるものではないし、
無理に来させようとできるものではない。
どこから来るのか私には分からない。
不意に詩句が降りてくる…
ときには
詩全体が次々と来ることもあるし、
そうでないときもある。
どうすることもできない。
だって私はそれがどこから来るのか知らないんだから。
 
実のところ、それは私がいないときに来る。
私は目がくらんでしまって、
ただ空っぽになるだけ。
だから、どうやって
「私」に感成することができる?」
 
 
 
古代の詩に作者の署名がないのはこのためだ。
 
誰も、誰がそれを書いたのか知らない。
 
ウパニシャッド、最も偉大な詩のなかの詩。
誰が書いたものなのか、誰も知らない。
作者たちはけっして自分の名前を記さなかった。
彼らは深い謙虚な気持ちから署名をしなかった。
彼らが作者ではなかったからだ。
彼らが創ったものでさなかったからだ。
 
 
 
蜷川が「あなたは誰か?」と問われたとき、
もし彼が他の詩人たち、
普通の詩人や作者や作家たちのようだったら、
彼のように自分のことで、
エゴ(欲・自我)でいっぱいになっていたとしたら、
こんな風に言っていたかもしれない。
 
「私は詩人です、桂冠詩人です。
ご存知でしょう?
帝に賞賛され、宮廷詩人に任命されているのですよ。」
 
いいや、蜷川はこう言っただけだった。
 
 
仏教帰依の俗(出家していない人)にてござる』
 
 
彼は連歌のことは言わなかった。
得ていた名声に言及しなかった。
彼は自分自身について何一つ言わなかった。
彼はただ、
仏の教えに帰依する者とだけ言った。
帰依者、献身する者。
 
これは彼が、
そのハートゆえに
その愛ゆえに
一休の前に立ったことを示している。
 
彼は理論のためだけでなく、
単なる帰依者としてその感じるところから来たのだった。
 
 
『一休   「いずれから?」
    蜷川   「和尚と同国なり」』
 
 
美しい比喩だ。
 
事実、蜷川は一休と同じ領地の出身だが、
彼はそんなことを指して言ったのではない。
 
彼は内面の領域について、
内面の探求について言ったのだった。
 
 
おそらく、
あなたはもうずっと前方にいらっしゃるでしょう。
 
おそらく、
あなたはもう到達しておられ、
私はといえばほんの初心者だ。
 
しかし、
私も同じ領域に属する者です。
探求するところは同じ…同じ旅仲間です。
 
 
ひとたび
あなたのハートが〈真理〉を知ろうとする
衝動でかり立てられたら、
あなたもまた、
全ての覚者(ブッダ)たちと
同じ旅をする旅仲間になる。
 
彼は行き着いた。
あなたもまた行き着くだろう。
 
それには何世も何世もかかるかもしれない。
 
だがそれはたいしたことではない。
 
あなたは道を歩み始めた。
まだほんの先端にいるかもしれないが、
でもあなたは同じ旅の旅仲間だ。
 
蜷川は言う。
 
 
『和尚と同国なり』
 
 
私は、あなたと同じ世界に属しています。
 
 
『一休   「ふむ、あちらはこの頃如何かの?」』
 
 
一休は蜷川を突つくのをやめない。
 
挑発している。
 
もしかしたらこの男は、
どこかで習った借り物の美辞麗句を並べて
欺こうとしている見せかけかもしれない。
それとも
こうした問答が書かれている教典を勉強した
禅宗の学者か?
 
だが、一休から逃れることはできない。
 
もしこの男が見せかけだけの人間だとしたら、
そのうちどこかでシッポを出す。
 
 
『「む、あちらはこの頃如何かの?」』
 
 
一休は蜷川を出発点にまたひき戻す。
 
彼が言おうとしたこともよく解っている。
同国という言葉で何を意味したかよく解っている。
だが、それを認めようとはしない。
「あちらでは最近どんなことが起こっている?」と訊き返す。
 
誰が偉くなったかね?
誰かの女房が浮気をしたような話は?
ウワサとかゴシップ、最近どんなことが起こっている?
 
いろんな出来事があったにちがいない。
誰が死んだとか、
結婚したとか、
出来事だ。
どんなことが起こっているのだね?
 
 
『蜷川   「烏はかあかあ   雀はちゅんちゅん」』
 
 
元首や宰相たちとその世界、
政治や経済や市場の動向は
本当の歴史ではない。
それは偶発的な事柄にすぎない。
「周辺」で起こることにすぎない。
 
 
それらは『永遠』の1部ではなく、
「時間」のなかで起こることだ。
 
 
『永遠』であるものだけが、
「知っている人」たちにとって唯一のニュースだ。
 
 
知らない人たちにとっては、
偶発的なことだけが唯一のニュースになる。
 
 
『烏かあかあ   雀はちゅんちゅん』
 
 
これこそ永遠不滅のニュース、
今までもずっとこのように起こり、
今もこのように起こっているニュースだ。
 
 
夏と冬、
自然は移り行き、
雲は現れまた消えていく。
 
これが永遠だ。
 
朝には陽が昇り、
夕べには沈む。
 
夜には星が、
ほのかな音楽を奏でながら大空に広がる。
 
これだけのことだ。
 
これが本当のニュースなのだ。
 
カラスは誰が出世しようと構わない。
スズメは出来事の世界にその涙ほどの注意も払わない。
 
人間だけは、
ガラクタがいっぱい詰まっている。
 
 
 
「歴史なんてデタラメだ」
と言ったことがある。
 
こういうことが、
あれほどの富豪の口から発せられたというのは稀有なことだ。
 
フォードの言ったことは正しい。
 
ナポレオンが勝とうが敗走しようが、
それがどうだというのだ?
 
 
 
誰が支配者であれ、
〈永遠〉は動いていく。
 
 
 
あれこれ起こっていることに『気づき』さえしない。
 
 
蜷川は何を言っているのだろうか?
 
彼は〈永遠〉なるものは
常に〈変わらない〉と言っている。
 
 
『蜷川   「烏はかあかあ   雀はちゅんちゅん」
  
    一休   「そなた  今  何処にいるとお思いか?」』
 
 
一休は厳しい。
 
また別のところからアタックする。
 
君は今自分がどこにいると思うかね?
 
 
蜷川   「濃むらさきに染まる野辺に」』
 
 
大徳寺は京都の紫野にある寺として知られていた。
 
 
『なにゆえ?』
 
 
なぜそんな呼び方をする?
 
君は今紫野の寺にいる。
 
なぜここを濃むらさきに染められている野と呼ぶ?
 
 
『蜷川   「桔梗   槿   萱草   紫蘭」』
 
 
花が辺り一面に咲き乱れている。
 
蜷川は「紫野という名前ですから」とは言わない。
 
名前は記憶に、「過去」に属するものだ。
 
導師 master は「今ここ(現在)」のことを訊いている。
 
今周囲は花であふれているではないか。
 
 
『桔梗   槿   萱草   紫蘭
 
 
この咲き群れた花で、
辺り一面、濃むらさきに染められたかのようだ…
 
一休が「今」について訊けば、
蜷川もまた「今」について話している。
 
しかし、
一休は一筋縄ではいかない禅師だ。
手綱をゆるめず、重ねて問いつめる。
 
 
『それらが去りし後は?』
 
 
今、ここに君の言う花が確かに咲いている。
いいだろう。
だから濃むらさきに染められている野、
紫野と呼んだのだろう。
だが、まもなくこれらの花は散る。
そうなったら、何と呼ぶのかね?
花が散り去った後は?
 
 
『蜷川   「宮城野   秋   花開きし野なり」』
 
 
ここで理解すべきことがある。
 
雲は現れまた消える。
 
これは同じコインの両面だ。
 
花は咲き、そして散る。
 
これもまた、同じ現象の2つの位相だ。
 
 
「在る」と「不在」は対立するものではない。
それは、
同じ1つの事物の2つの位相だ。
 
 
今は花が咲いて「在る」。
だから紫野と呼ばれる。
そして花が去ったとき、
人々は、
これは、
秋に咲いたあの紫色をした花が「不在」になった野だと言うだろう。
 
依然、紫野であることに変わりはない。
紫野のもう1つの位相を「不在」の相を見ている。
 
 
 
こんな話がある。
昔、1人の禅師がいたが、
この禅師は母親を非常に愛していた。
父親は彼が禅林に入る前に死んだ。
禅僧になりたいと伝えたとき母親はこう言った。
 
「私は貧しい上に、一人ぼっちになる。
お父さんは死んだし。」
 
すると彼は言った。
 
「僧になっても私は変わらずあなたの息子でいますし、
あなたも私の母上でいてください。
私は世を捨てはしません。
あなたは何も失うわけではありません。」
 
息子は母親を心から愛していた。
母親のために市場に買物にも行った。
人々は笑った。
 
「坊さんが買物なんて、見たこともない。」
 
仏僧はふつう托鉢して物を乞う。
この僧は托鉢しないばからはか、
肉や魚まで買うことがあった。
人々は彼を嘲笑した。
これはやり過ぎだ。
 
もちろん、
僧は自分のためにそれらを買ったのではなく、
母親のために買っていたのだ。
母親は尼僧でも宗教的な人でもなかったから、
そういうものを好んで食べた。
 
しかし、
僧侶の息子が魚などを買うのを指して
街中の人が嘲笑するのを見ると、
彼女は菜食するようになった。
 
それに、
人々が息子の買物する姿を見て笑うものだから、
 
「もう行かないでおくれ。
私が自分で行きます。」
 
と言うようになった。
 
彼はいつまでも母に対して献身的な息子だった。
 
そのうちある日、
彼は説教のために出かけて行ったが、
留守の間に母親が死んでしまった。
戻った彼は、
かろうじて母親の死に顔を見ることができた。
ちょうど人々がその亡骸を墓地に運ぼうとしていたときだった。
彼は亡骸に近寄ると言った。
 
「お母さん、行ってしまわれたのですね。」
 
それから、自分自身でまたこう応えた。
 
「そうだよ、息子や、私は体から抜け出てしまったよ。」
 
彼は再び言う。
 
「心配しないでください。
私もまもなく肉体を離れることでしょうから。」
 
それから彼は返事をした。
母親の側からだ。
 
「わかった、お前を待っているよ。」
 
僧はそこに居た人々に
 
「私は母に別れを告げました。
対話は終わりました。
葬儀は済んだのです。
もうこの体を持って行って構いません。」
 
と言った。
誰かが訊ねた
 
「私たちには何のことか全く解りません。
どうしたんです?
誰に向かって話していたんですか?」
 
「母上の「不在」にです。
なぜなら、それが
母の「存在」のもう一つの位相だから。」
 
「しかし、ではなぜあなたが返事をしたんですか?」
 
彼は言った
 
「それは、母には返事ができなかったからです。
ですから、私が両方しなければならなかった。
「不在」なるものには返事はできません。
だから私が、母の側から返事をしなければならなかったのです。
でも母親は、前に「いた」のと同じように「いる」。
ただ、今は「不在」の相の内にいるだけです。」
 
 
 
こういうわけで、
一休がそれらが去りし後は?」と訊いたとき、
蜷川は「宮城野  秋  花開きし野なり」と応えたのだ。
 
前と同じ野、
ただ「不在」の相の内にあるだけ。
 
 
顕れているか、顕れていないか、
存在しているか、存在していないか、
生か、死か、
 
 
こういったことは、
同じ現象の2つの位相でしかない。
 
選ぶべきことは何もない。
 
選ぶ者は愚かだ。
 
不必要に苦悩に陥ることになる。
 
 
さて、内心驚きながら、
一休は最後の問いを出す。
 
 
宮城野にて   何ぞ起こるかの?』
 
 
花が去ったあとの野はどうなる?
 
 
蜷川   「水は流れ、風わたり申す」
 
禅師はその禅風にいたく驚き
蜷川を奥間に通して茶をもてなした』
 
 
いいかな、
これは「禅風」であって、
厳密に『禅』ではない。
 
蜷川は詩人だ。
 
しかも深い理解をそなえた偉大な詩人だ。
 
しかし、
詩の世界の極致は、
禅の世界の入口にすぎない、
 
宗教の世界の入口にすぎない。
 
 
「禅風」… 蜷川は理解している。
 
 
ある種のきらめきを経験している。
彼は自分を開いているし、
感じることもできる。
 
暗闇を手探りで歩いてきて、
ある種の質をつかんでいる。
 
自身の探求を通じてそれに行き当たったのだ。
 
しかし、
それはあくまでちらりと一見したのでしかない。
 
それは時折起こりうる。
 
 
暗い夜、突然走る稲妻。
あなたは一瞬それを見る。
そして、暗闇が戻る…
 
 
これが、偉大な詩人に起こることだ。
 
彼はまさに境界線上に立って、
そから彼岸を垣間見る。
それはあくまでちらりと見ることにすぎない。
 
それは「禅風」にとどまる。
 
 
 
 
では、「禅風」はいつ『禅』になるのだろうか?
 
 
 
 
それは、単なる一見がそうでなくなり、
その人の存在そのものになるときだ。
 
そうなったとき人は、
瞬間、瞬間をその内に生きる。
 
もうそれは、
ちらりと現われまたすぐに消えるものではない。
 
それは、
人の最も内奥の存在のあり方、生き方となる。
 
それは、
もう走る稲妻ではない。
 
白昼のように、真昼のように、
太陽は空高くあがり、
そこにとどまる。
 
暗闇が戻る可能性はもうない。
 
それは、
ちらりと一見するものではなく、
その人の一部となっている。
 
そうなったら、
どこに行こうが、
人はそれを内部に持って行く。
 
今こそ内なる光が燃えている。
 
もう偶然に左右されることはなく、
人は内側でゆったり定着できる。
 
それはその人の家になったのだ。
 
 
 
 
頭で〈現実 リアリティ〉に至ろうとするのは、
まるで耳で見ようとするようなものだ。
 
それは不可能だ。
 
耳は
聞くことはできるが、
見ることはできない。
 
 
 
 
ハートを通して〈現実 リアリティ〉に至ろうとするのは、
手で見ようとするのに似ている。
 
手は
見ることはできない。
しかし、
手を通して
見ることとはどんなことか一見はできる。
 
 
盲目の人は、
もし愛する女性がいたら、
その顔に触わり、
顔をかたどる曲線に触れる。
 
そのからだを触わって、
肌の丸みや暖かみ、
大理石のようなその感触を感じとる。
 
こんなとき、
手でも
見るということのきらめきを得られる。
 
手は
見ることに近いものを
ちらりと感じ取らせてはくれるが、
厳密には
見ることとは違う。
 
 
手は
手探りすることしかできない。
 
だが、
眼を閉じて人の顔を触われば、
その曲線を、鼻を、眼を、
どんな顔立ちかを感じ取ることはできる。
 
 
詩人は
手のようなものだ。
 
詩人は
〈現実 リアリティ〉の『本性』を
手で感じる。
 
ある種のきらめきがそれによって得られる。
 
「禅風」とはこのことだ。
 
 
 
 
真の禅人は
眼のようであって、
手探りはしない。
 
手で触れる必要はない。
 
真の禅人は
見ることができる。
 
 
禅師はその禅風にいたく驚き
蜷川を奥間に通して茶をもてなした』
 
 
ここにあるのは、
人が導師 master に受認されたことを示す象徴(シンボル)だ。
 
より親しく
もっと近づくことを許されたのだ。
 
 
『茶をもてなした』
 
 
茶は『覚醒』を意味する禅のシンボルだ。
 
茶はあなたをより敏感にし、自覚させる。
 
 
 
茶を発明したのは仏教徒たちだった。
何世紀にもわたり、
仏教徒は茶を瞑想 meditation に役立ててきた。
 
 
確かに茶は役に立つ。
 
 
茶を一杯、強いのを一杯飲んでから
坐って瞑想 meditation に入れば、
少なくとも一時間は眠気を覚えずに目覚めていられる。
 
あなたは、
静かにゆったりと坐ると、
必ず眠くなる。
 
この眠気を避けるために茶は役立ってきた。
 
 
 
茶の話はボーディダルマ菩提達磨)にはじまる。
 
ボーディダルマがインドから中国へと渡り、
中国のTaと呼ばれる山で瞑想 meditation していたときのことだ。
 
このTaから英語のTeaが来ている。
 
この山の名前はTa以外にChaとも発音されていた。
 
インドでも茶は、
Chai(チャイ)とか
Cha(チャ)と呼ばれる。
 
 
 
ボーディダルマは壁に向かって9年間
瞑想 meditation していた。
 
彼は真に偉大な瞑想者だった。
 
彼は十八時間にわたって瞑想 meditationするのを好んだが、
これは実際大変なことだった。
 
くり返し、くり返し睡魔におそわれ、
そのたびに目蓋が閉じかかる。
 
そこで彼は、
目蓋を切って棄ててしまった。
 
こうなったらもう眼を閉じる可能性はない。
 
 
 
この話は美しい。
 
そして、
この目蓋が茶の最初の種となり、
その種から生えてきた草木で、
その葉を摘んで世界で最初の茶をたてたという。
 
茶にして飲んだ彼は驚いた。
 
かなり長い間敏感でいられたからだ。
 
このことから禅の人々は茶を飲むようになり、
茶は非常に神聖なものになっていった。
 
 
 
禅の師が茶を出すというのは一つの比喩だ。
 
師は、「もっと目覚めよ」と言っている。
 
 
 
おまえの歩む道筋は正しい、
と一休は蜷川に言う。
正しい道筋だ。
 
 
が、おまえはいささか眠たげに歩いている。
 
 
おまえは正しい方向を見つけたのだから、
その方向に進むがいい。
 
 
まもなくお前の「禅風」の存在は
『禅』になっていくことだろう。
 
が、もう少し目覚めていることが必要だ。
 
 
その禅風にいたく驚き
蜷川を奥間に通して茶をもてなした』
 
 
一休は『目覚め awareness』をすすめている、
一杯の覚醒(目覚め awareness)を。
 
これは、
蜷川はもっと目覚めていなければならない
という象徴だ。
 
それだけが
蜷川に必要だということだ。
 
 
その折詠まれた歌は
「何をかな参らせたくな思へども
    達磨宗には一物も無し」』
 
 
これには2つの意味がある。
 
 
普通の意味は…
 
禅宗ではご馳走は認めない。
簡単な食べ物だけだ。
穀物に野菜に茶、
珍味はない。
 
だから、当たり前の意味にとればこうなる。
 
「何か馳走したいと思うのだが、
残念ながら禅門には
もてなせるものは何も無い。」
 
これは、
一休が
蜷川の最も奥深い核心に浸透しようとする
最後の努力だった。
 
蜷川にこの歌の意味を理解できるだろうか。
 
 
2つめの意味は…
 
「何か馳走したいと思うのだが、
残念ながら禅門に差し上げられるものは
〈無いもの nothing〉だけだ」
 
一物も無し」の意味は
「何もない」という意味でもあり、
また
「何も無いということ」でもありうる。
 
そのときには
 
「無をふるまう」ということだ。
 
〈目覚め awareness〉と〈無 nothingness〉とは、
同じものの2つの位相であり、
 
〈目覚め aware〉ていけばいくほど、
存在が〈無 nothing〉である感じは強まる。
 
 
だから、
一休はまず茶をふるまうことで
「もっと目覚めよ become aware」と言い、
それからこう言ったのだ。
 
「残念ながら何も差し上げられない、
無以外は。」
 
 
これは導師 master が放った最後の網だった。
 
 
もし蜷川が見せかけだけの人間だったら、
茶のもてなしを受けた後、
気をゆるめていたことだろう。
 
彼はこんなことを考えたかもしれない。
 
「私は受け容れられた。
禅師が居室に通して茶をふるまってくれたのだから。」
 
彼はほっとして、
茶を一杯すすった後リラックスしたことだろう。
 
 
 
人は長い時間見せかけを続けることはできない。
 
 
 
何かのフリをするというのは大変な緊張を要するから、
過ぎたと思えばリラックスせずにはいられない。
 
 
 
導師 master は茶をふるまってくれた。
 
もう見せかける必要はない、終わった。
 
というわけで、
これは一休の仕掛けた最後のワナだった。
 
蜷川の返歌。
 
 
一物も無きをたまはる心こそ
    本来空の妙味なりけり』
 
 
いや、彼には本物の「禅風」の理解があった。
 
単なる詩人ではなかった。
 
 
〈実在〉の真の詩情の何かが
蜷川の内には起こっていた。
 
蜷川は即座に一休の歌を理解した。
彼は即座に対応することができた。
蜷川は言う。
 
「無をもてなしてくださるお心こそ、
本来の空。
 
これこそ珍味のなかの珍味でございます。」
 
無こそ
ご馳走中のご馳走。
 
これ以上のものはもてなそうとしてもできない。
 
これこそ最後のご馳走
〈実在〉自身の最後の味だ。
 
それは、
あたかも神そのものを食べたかのような、
ご馳走のなかのご馳走。
 
 
深く心動かされた禅師が言った
「そなた、多くを学んできたものよ…」』
 
 
ここの『学ぶ』は「知識」のことではない。
 
禅では
『学ぶ』ことと「知識」は違うと見なす。
 
このことを少し説明しておこう。
 
 
 
「知識」は借り物だが、
 
『学び取る』ということはあなた自身のものだ。
 
 
「知識」は、
言葉や言語、概念を通じて得られるが、
 
『学び取る』とは、
あなたの『経験』を通して得られるものだ。
 
 
「知識」は常に完了形だ。
何かを知ることで、それは完了する。
 
『学ぶ』ことにはけっして完了がない。
常に途上にある。
 
 
『学ぶ』ことはプロセスであって、
休むことなくずっと続けられる。
 
最後の最後の瞬間まで、人は『学ぶ』続ける。
 
 
「知識」は必ずどこかで止まり、
エゴ(欲・自我)になる。
 
だが
 
『学ぶ』ことには終わりがなく、
謙虚なままであり続ける。
 
 
「知識」は借り物だ。
 
あなたは「知識」で導師 master を欺くことはできない。
 
あなたの言葉は「表面」にとどまり、
内側深いところで、
あなたの存在は示される。
 
言葉で自分を隠すことはできない。
 
導師 master にとって、
あなたの言葉は透けて見える。
 
あなたが知っているとして示すものが何であれ、
導師 master はその背後にある真実を見逃さない。
 
 
この男蜷川も、
もし「知識人」であったら
一休に捉まっていただろう。
 
しかし
彼は本当に『学ぶ』人間だった。
 
彼は『学んできた』のであって、
それは「見せかけ」ではなかった。
 
 
〈生命〉〈実存〉から得た多くの『経験』、
蜷川は多くを『学ぶ』とってきた。
 
 
『そなた、多くを学んできたものよ…』
 
 
これは禅の導師 master からとしては
とてつもないことだ。
 
 
禅師たちは
こうしたことを言うことに関して
とてもケチだ。
 
 
禅師がこう言うとき、それは本気だ。
 
 
こんなことを言うのは、
本当に心動かされたときでしかない。
 
 
相手に本物を
心底感じ取ったときでしかない。
 
 
そうでなければ、言わない。
 
 
 
 
この逸話の内側をよく見なさい。
 
そして
 
自分をそこに並べて『感じて』みなさい。
 
 
 
 
あなたは『学んで』きただろうか?
 
それとも「知識」をかき集めてきただけだろうか?
 
 
 
 
これを最も基本的な法則として、
 
けっして「知識」を通して反応しないでいなさい。
 
反応ではなく、
臨機応変に対応することだ。
 
そうしてこそ初めて、
あなたは私にもっと近づく。
 
そうなったら、
ある日、
私もあなたを奥間に導いて
茶をふるまうことができる。
 
そうでない限り、
物理的に私に近くなっても、
なんの役にも立たない。
 
 
私はあなたに目覚め awareness を
もてなさなくてはならない。
 
そして
ご馳走のなかのご馳走も
差しあげなければならない。
 
妙味なる無 nothingness を…
 
 
A Field Dyed Deep Violet
 
 
NINAGAWA-SHINZAEMON, A LINKED-VERSE POET, AND DEVOTEE OF ZEN, DESIRED TO BECOME A DISCIPLE OF THE REMARKABLE MASTER, IKKYU, WHO WAS ABBOT OF THE DAITOKUJI IN MURASAKINO - A VIOLET FIELD.
 
HE CALLED UPON IKKYU, AND THE FOLLOWING DIALOGUE TOOK PLACE AT THE TEMPLE ENTRANCE.
 
IKKYU: "WHO ARE YOU?"
NINAGAWA: "A DEVOTEE OF BUDDHISM."
IKKYU: "YOU ARE FROM?"
NINAGAWA: "YOUR REGION."
IKKYU: "AH. AND WHAT'S HAPPENING THERE THESE DAYS?"
NINAGAWA: "THE CROWS CAW, THE SPARROWS TWITTER."
IKKYU: "AND WHERE DO YOU THINK YOU ARE NOW?"
NINAGAWA: "IN A FIELD DYED DEEP VIOLET."
IKKYU: "WHY?"
NINAGAWA: "MISCANTHUS, MORNING GLORIES, SAFFLOWERS, CHRYSANTHEMUMS, ASTERS."
IKKYU: "AND AFTER THEY'RE GONE?"
NINAGAWA: "IT IS MIYAGINO - THE FIELD OF AUTUMN FLOWERING."
IKKYU: "WHAT HAPPENS IN THAT FIELD?"
NINAGAWA: "THE STREAM FLOWS THROUGH, THE WIND SWEEPS OVER." 
 
AMAZED AT NINAGAWA'S ZEN-LIKE SPEECH, IKKYU LED HIM TO HIS ROOM AND SERVED HIM TEA. THEN HE SPOKE THIS IMPROMPTU VERSE: 
 
"I WANT TO SERVE YOU DELICACIES. ALAS! THE ZEN SECT CAN OFFER NOTHING."
 
AT WHICH THE VISITOR REPLIED: 
 
"THE MIND WHICH TREATS ME TO NOTHING IS THE ORIGINAL VOID - A DELICACY OF DELICACIES."
 
DEEPLY MOVED, THE MASTER SAID: 
 
"MY SON, YOU HAVE LEARNED MUCH."
 
 
 
 
Poetry is closer than theology to religion, imagination nearer than reason. And, of course, religion transcends both - it is neither.
 
But through logic, to drop into the abyss of religion is a little bit difficult, because logic has a rigidity about it. It is not flexible; it is closed, not open; it has no windows, no doors, to go out of itself. It is like a grave. One can die within it, but one cannot move into a living process, one cannot become more alive through it. Logic is a straitjacket, a prison.
 
Poetry is closer to religion, because it is more flexible, liquid, more flowing. It is not religion, but you can drop out of it more easily than from logic. It has openings - doors and windows - and fresh winds can always reach into the deepest core of the heart of a poet. 
Poetry is not rigid; you can drop out of it, if you like; it will not cling to you. And, because it is imaginative, it can stumble, even unknowingly, upon the unknown. It goes on groping in the dark - it IS a groping in the dark - and it goes on groping, it goes on searching. It is always ready to move into any new dimension.
 
Logic is resistant: you cannot find more orthodox people than logicians. They will never listen to a new dimension opening; they will not even look at it. They will simply say it is not possible. All that is possible, they think, is already known; all that can happen has already happened. They are always suspicious of the unknown.
 
The heart of the poet is always in love with the unknown. He goes on groping in the dark for something new, something original, something un-tasted before, something unlived, un- experienced. A poet gropes. And sometimes he can stumble upon the unknown; he can fall into the abyss of religion.
 
Poetry is metaphoric, metaphorical, it lives through metaphors. 
 
The same is the language of religion. 
Of course, when a metaphor is used in a poetic way, it means one thing; and when it is used in a religious way, it means something else. But both use metaphors. There is a meeting ground. Their meanings may differ, but their methods are of the same family. They look like twins. Vast is the difference within, but at least in form, at the surface, they are more alike than logic and religion. Because of this likeness religion has always spoken in the way of the poet: Upanishads, Vedas, Kabir, Meera, Zen poets....
 
Zen poets have written beautiful haikus, so condensed that a vast poetic world becomes like a seed in the haiku. 
 
Sometimes they are very simple; you cannot even catch the significance immediately. But if you ponder over them, meditate upon them, then, by and by; the small haiku becomes a door. 
 
A few days before I was reading Basho's famous haiku. It is very small, but if you meditate upon it, suddenly a door opens. The haiku is:
 
"Old pond Frog jumps in Water-sound."
 
Just visualize it - an old pond, very ancient, a frog jumps in, the water-sound. Finished. Nothing more to say. A whole situation condensed. If you meditate on it, suddenly you will feel a silence surrounding you. Something will change within you. It is objective art.
 
Zen poets, Sufi mystics, Hindu saints, have all spoken in the language of poetry, and even if sometimes Buddha and Mahavira and Jesus don't speak in the language of poetry, the poetry is still there, whether they speak in it or not. If you listen to them, you will feel a certain poetic quality underneath their words. Their prose is only on the surface. The form is of prose, but the spirit is of poetry. In fact, one who is enlightened cannot do otherwise. If he must speak in prose, he can; but he cannot avoid poetry. 
The poetry will be there just beneath the surface - if you have a little insight, you will see it; it is vibrant and alive there. 
 
Religion and poetry have the same language: their words differ, but somewhere they have a meeting point. And that meeting point is the subject of this story.
 
 
 
A poet comes to meet a Zen master. 
He must have been a very great poet, because only the highest and greatest poets can have a meeting ground with the mystic. Each and every poet will not have that, because where the poetry becomes ultimate, there is the first step of mysticism. Where the poetry ends, culminates, reaches its peak, its GOURISHANKAR, becomes the Everest, there is the first step of the temple of the mystic. The highest poetry is the lowest mysticism - there is the meeting point. 
 
So only very great poets can attain to the height where a Zen master will have to say:
 
 
"MY SON, YOU HAVE LEARNED MUCH." 
 
 
 
 
Now we should enter into this story.
 
 
NINAGAWA-SHINZAEMON, A LINKED-VERSE POET, AND DEVOTEE OF ZEN, DESIRED TO BECOME A DISCIPLE OF THE REMARKABLE MASTER, IKKYU, WHO WAS ABBOT OF THE DAITOKUJI IN MURASAKINO - A VIOLET FIELD.
 
 
This has always been my feeling: that the greatest of the poets cannot avoid religion; they have to come into it, because poetry leads to a certain point, and beyond that is religion. 
 
If you persist in being a poet, you will become religious. 
 
You can remain a poet only if you have not travelled the whole extent of it. So only small poets can remain poets: great poets are bound to move into religion. 
 
You cannot escape it, because a certain point comes where the poetry ends and religion begins. 
 
If you follow up to that extent, where will you go? 
 
At that moment poetry converts itself into religion. One has to follow.
 
The same thing happens to a logician, to a scientist, but in a different way. With a scientist also, if he persists, goes on and on and on, there comes a moment where he feels there is a cul-de-sac, the road moves nowhere. Now there comes an abyss, there are no more roads ahead.
 
It is different with a poet: there is a road ahead, but now it is no longer of poetry. His road automatically converts into the road of religion. 
But for a scientist, a logician, or a philosopher, it happens in a different way. He comes to a cul-de-sac, the road simply ends. It goes no further; there is no road, just a precipice, an abyss.
 
This happened to Albert Einstein in his last days. It can happen only to the greatest. The lesser minds on the same road never reach to the cul-de-sac point. They die somewhere on the road believing that the road was leading somewhere, because there was still road ahead of them. The conversion happens only to the greatest. In the last days of Albert Einstein's life, he started feeling that his whole life had been a wastage. Somebody asked him, 
 
"If you are born again, what would you like to be?" 
 
He said: 
 
"Never again a scientist. I would rather be a plumber, but never again a scientist. Finished!" 
 
In the last days, he started thinking about God, or the ultimate meaning of life, the mystery of mysteries, and he said: 
 
"The more I penetrated into the mystery of existence, the more and more I felt that the mystery is eternal, unending, infinite. The more I came to know, the less I became certain about my knowledge."
 
The mystery is vast, it cannot be exhausted. This is what a concept of God is: the mysterious, the vast, that which cannot be exhausted. You can know, and know, and know, and still it remains unknown. You move into it, and go in, and in, and in, and still you are moving on the periphery. You go on dropping into it, but there is no bottom to it. You can never exactly reach to the center of the mystery. The moment never comes when you can say: "I have known all." Nobody has said that, except fools. 
 
A wise man starts feeling more and more ignorant, only fools gather a few things from here and there, and start thinking that they know. 
 
Only fools are knowers, claimers of knowledge.
 
Even in a scientific search the moment comes when the road leads nowhere. Then, suddenly, there is a jump.
 
A poet can move into religion without any jump, he can simply slip, the roads are linked together. 
 
But a scientist has to take a jump: a total about-turn, three hundred and sixty degrees. He has to go completely upside down, inside out, outside in. 
 
But a poet can simply slip, like a snake slipping out of his old skin. That's why I say that poetry is closer to religion.
 
 
This man, Ninagawa, must have been a very, very great poet; hence he became interested in Zen, meditation.
If poetry does not lead you to meditation, it is not poetry. At the most, it may be a clever composition of words, but there will be no poetry in it. You may be a good linguist, a good composer, a good grammarian, one who knows all the rules about how to write poetry, but you are not a poet - because poetry in its deepest core is meditative.
 
A poet is not a composer: a poet is a visionary. He doesn't compose, the poetry happens to him in certain moments - those moments are of meditation. In fact, when the poet is not, then the poetry happens. When the poet is completely absent, suddenly he is filled with something unknown, unasked for; suddenly something of the unknown has entered into him, a fresh breeze has come into his house. Now he has to translate this fresh breeze into language - he is not a composer, he is a translator. 
 
A poet is a translator: something happens inside his being and he translates it into language, into words. Something wordless stirs within. It is more like a feeling, and less like a thought. It is less in the head, and more in the heart.
 
A poet is very courageous. 
To live with the heart takes the deepest courage
 
The word "courage" is very interesting. It comes from a Latin root "cor", which means the heart. The word courage comes from the root "cor". Cor means the heart - so to be courageous means to live with the heart. 
 
And weaklings, only weaklings, live with the head; afraid, they created a security of logic around them; fearful, they close every window and door with theology, concepts, words, theories - and inside them they hide.
 
The way of the heart is the way of courage
It is live in insecurity, it is to live in love, and trust; it is to move in the unknown; it is leaving the past and allowing the future to be. 
 
Courage is to move on dangerous paths: life is dangerous and only cowards can avoid the danger. But then, they are already dead. 
 
A person who is alive, really alive, vitally alive, will always move into the unknown. There is danger there, but he will take the risk. 
 
The heart is always ready to take the risk, the heart is a gambler, the head is a businessman. 
 
The head always calculates - it is cunning. The heart is non-calculating.
 
This English word "courage" is beautiful, very interesting. 
 
To live through the heart is the meaning: a poet lives through the heart. And, by and by, in the heart he starts listening to the sounds of the unknown. 
 
The head cannot listen; it is very far away from the unknown. The head is filled with the known.
 
What is your mind? 
It is all that you have known. 
It is the past, the dead, that which has gone. 
 
Mind is nothing but the accumulated past, the memory. 
 
Heart is the future, heart is always the hope, heart is always somewhere in the future. 
 
Head thinks about the past; 
heart dreams about the future.
 
 
And I tell you that the present is nearer to the future than to the past. That's why I say that the poet is nearer to religion. 
 
 
 
Philosophy, logic, metaphysics, theology, science, all belong to the past, the known; 
 
poetry, music, dance, art - all the arts - belong to the future.
 
Religion belongs to the present, 
 
 
 
and I tell you that the future is nearer to the present than to the past, because the past is already gone. 
 
The future is to come. The future is yet to be. The future has yet the possibility. It will come; it is already coming. Every moment it is becoming the present and the present is becoming the past. 
 
The past has no possibility, it has been used. You have already moved away from it - it is exhausted, it is a dead thing, it is like a grave. 
 
The future is like a seed; it is coming, ever coming, always reaching and meeting with the present. 
 
You are always moving. 
 
The present is nothing but a movement into the future; it is already the step that you have taken; it is going into the future. 
 
Poetry is concerned with possibility, hope, dreams; it is nearer.
 
 
This man, Ninagawa, must have been a great poet. Why do I say he must have been a great poet? - I have not read his poetry; I don't know what he wrote. But I say he must have been a great poet, because he became interested in Zen. And not only that - he
 
 
DESIRED TO BECOME A DISCIPLE OF THE REMARKABLE MASTER, IKKYU.
 
 
To be interested in Zen is not enough unless you become a disciple. To be interested in religion is not enough - it is good, but it doesn't go very far. Interest remains a curiosity; interest remains mental, unless you take a jump into commitment, unless you become a disciple.
 
To become a disciple is a great decision. It is no ordinary decision; it is a very difficult, almost impossible decision. I always say that to become a disciple is the most impossible revolution. 
Because how can one trust another? 
How can one leave his life in the hands of another? 
It is the most impossible revolution, but it happens, and when it happens, it is beautiful, there is nothing like it. 
But only those who are very courageous, almost daredevils, only they can take the step. 
 
It is not for cowards. 
It is not for head-oriented people. 
 
It is for those who live in the heart, for those who have courage, for those who can risk. This is the greatest gamble ever because you risk your total life, you give yourself to somebody. You don't know who he is, you cannot know. You may feel certain things, but you can never be certain about the master. Always a doubt remains. In spite of the doubt, one has to take the jump. The doubt cannot be satisfied. No. You can hide it, but you cannot convince the doubting part - how can you convince it? 
You have to be with the master, only then will the doubt disappear. Before it is not possible. Only experience will help it to disappear. So how can you convince it?
 
The mind always hesitates. 
People come to me and they say that they are hesitating, they are fifty-fifty, 
what to do? 
Should they wait? 
 
If they wait, they can wait forever, because if they think that they will take the jump only when the mind is a hundred percent certain, convinced, then they will never take it. Because the mind can never be a hundred percent for something - that is the nature of the mind. It is always divided, fragmented; it can never to total. 
 
That is the difference between heart and mind. 
 
Heart is always total, 
mind is always divided. 
 
Mind is the division of your being: 
heart is the undivided being.
 
Discipleship is of the heart. 
 
The mind goes on rambling and talking and doubting and being suspicious. In spite of that, in spite of the chattering mind, one takes the jump. I say "in spite of that". That is the only way - you simply don't listen to the mind. 
 
You simply move beneath the mind, reach the heart, and ask the heart. 
 
Discipleship is like love, it is not like a business partnership. 
It is not a bargain. 
You simply give, without knowing whether something is going to happen or not. Whether you will receive anything back, you don't know. You simply give. 
That's why it is courage.
 
 
He was not only interested in Zen, he was a devotee. 
He loved it. Interest, curiosity, enquiry, is of the mind, devotion is of the heart.
 
 
...DESIRED TO BECOME A DISCIPLE.
 
 
What is becoming a disciple? 
What does it mean? 
 
It means: I have tried, and failed; I have searched and couldn't find; I have done all that I could do, and I have remained the same. No transformation has happened to me. So I surrender. Now, the master will be the deciding factor, not me. I will simply follow him like a shadow. Whatsoever he says I will do. I will not ask for proofs. I will not ask that he should first convince me. I will not argue, I will simply follow - in deep trust.
 
The mind may still go on about: "What are you doing? This is not good. This will not lead anywhere; this is foolish, this is mad." The mind will go on saying this, but, once you have taken the decision to be a disciple, you don't listen to the mind, you listen to the master. 
 
Up to now you have listened to your own mind, the ego, from now onwards, you will listen to the master, now the master will be your mind. 
 
This is the meaning of discipleship: you will put yourself aside and allow the master to penetrate into the deepest core of your being. You are no more. Now only the master is. To be a disciple means to be a shadow, to put your ego completely aside.
 
 
HE CALLED UPON IKKYU, AND THE FOLLOWING DIALOGUE TOOK PLACE AT THE TEMPLE ENTRANCE.
 
 
Zen stories are very, very meaningful: no word is there unnecessarily, not even a single word.
 
 
...THE FOLLOWING DIALOGUE TOOK PLACE AT THE TEMPLE ENTRANCE.
 
 
First, the word "dialogue". 
 
Dialogue is not just talking, 
it is not discussing, 
it is not arguing, 
it is not a debate. 
 
A dialogue has a different quality. 
A dialogue is the meeting of two beings, meeting in love, trying to understand each other. 
Not trying to argue, not trying to discuss - just a very sympathetic attitude. 
Dialogue is participating in the being of the other: two friends or two lovers talking with no antagonism inside, with no effort to prove you right, and the other wrong.
 
That happens while you are talking with people - you go on and on in subtle ways, trying to prove that you are right. 
And the other goes on trying to prove that he is right. 
Then dialogue is not possible. 
 
Dialogue means trying to understand the other with an open mind. 
Dialogue is a rare phenomenon and it is beautiful, because both are enriched through a dialogue. In fact, while you talk, either it can be a discussion - both opposite to each other, a verbal fight, trying to prove that I am right and you are wrong - or a dialogue, which is different. 
 
Dialogue is not posing against each other, but taking each other's hand, moving together towards the truth, helping each other to find the way. It is togetherness, it is cooperation, it is a harmonious effort to find the truth. It is not in any way a fight, not at all. It is a friendship, moving together to find the truth, helping each other to find the truth. 
 
Nobody has the truth already, but when two persons start finding out, enquiring about the truth together, that is dialogue - and both are enriched. 
 
And when truth is found, it is neither of me, nor of you. When truth is found, it is greater than who participated in the enquiry, it is higher than both, it surrounds both - and both are enriched.
 
Dialogue is the beginning between a master and a disciple;
and it must happen at the entrance, otherwise going into the temple is not possible. 
 
Hence the words "at the entrance" - it must happen at the gate. 
 
The first thing is the dialogue: if it doesn't happen, then there is no possibility of any disciple hood. Then Ikkyu would have said good-bye, at the very entrance, because there would be no need to invite the person into the temple, there would be no meaning in it. So sitting at the entrance, just sitting on the steps, this dialogue happened.
 
Ikkyu tried to feel the man. 
He had to feel the man, the potentiality, the possibility, the attitude. 
 
How deep was the enquiry? 
How deep was the urge to enquire? 
Was it just a curiosity? 
Was he just a philosopher, or really a devotee? 
 
Ikkyu was just trying to feel his being, and Ninagawa allowed it, he participated in it. 
 
He didn't become scared, 
he didn't try to defend, 
he didn't try to pretend to be something which he was not. 
He opened his heart to this man completely. 
 
He allowed this man to enter in him, to feel, because that's how a master has to decide whether you have come here accidentally, or you have really come.
 
The coming can be accidental - somebody told you and you were passing by the road so you said: "Okay, there is time enough to go to the movie. Let us go and see who this master is."
 
If it is accidental then it is better to end the relationship at the entrance, because it will lead nowhere. 
 
If the mind is argumentative, 
if the mind is too filled with its own ideas, 
then you can become a student, but not a disciple. 
 
And a master is not a teacher, 
he is not in search of students, 
he is not running a school. 
 
He is creating a temple of the heart, 
he is making a shrine; 
he is bringing a holy, sacred phenomenon to the earth.
 
 
Ikkyu had to feel, and he felt him very deeply, and the man proved his mettle, he was authentic. 
 
He didn't react, he responded to the master, and whatsoever the master asked, he gave a total response to it. 
 
Those responses are beautiful, 
move slowly.
 
 
HE CALLED UPON IKKYU, AND THE FOLLOWING DIALOGUE TOOK PLACE AT THE TEMPLE ENTRANCE. IKKYU: "WHO ARE YOU?"
 
 
That is going to be the whole search. 
 
"Who am I?" 
 
is all that religion is about. 
 
 
If you already know who you are, then there is no need to bother or, if in your ignorance you have become identified with the name and the form, too identified, too filled with your name and form, then, too, you are not yet mature enough for a master like Ikkyu to accept you. 
You have to go to a lesser master, in fact, to a teacher who will teach you that you are not the name, and you are not the form, and you are not the body, and this and that, and create a philosophical soil into which a master can throw the seed. You need to go to some teacher. 
 
So the first thing Ikkyu asked was: 
"Who are you?"
 
Ninagawa said:
 
 
"A DEVOTEE OF BUDDHISM."
 
 
A very, very humble attitude - non-claiming. 
 
He didn't say his name, that 
 
"I am Ninagawa - you don't know? Have you not heard about the greatest poet in the country? Don't you read newspapers? What nonsense are you asking: Who are you? Everybody knows in the country, even the emperor."
 
Poets are very, very egoistical people. Poets, writers, novelists - all have very crystallized egos. You cannot find more egoistical people than literary people. It is very difficult to have any dialogue with them. They already know. They can teach you, but they cannot be taught. Just because they can compose a few lines, just because they can write an article, or a novel, or a story, they start feeling very much that they are somebody. In fact, a real poet will have no ego - if a poet has a very crystallized ego, he is not a poet at all. Because he has learned nothing out of his poetry, he has not even learned this basic truth: that poetry descends only when you are not. So he must be composing, he must be doing something. Poetry can be a technique, so he may be a technician, but he is not a poet. He may be able to arrange beautiful words, in rhythm, he may follow all the rules, he may be perfect - but he is not a poet. He may be clever, technically right, but deep inside, if the ego is still there, he does not know what poetry is, because poetry happens only when you are not. In fact, a great poet will not claim that he is the creator of this poetry. How can he claim it? He was not when it happened.
 
It happened that when Coleridge - one of the greatest poets - died, he left almost forty thousand pieces incomplete. He would start a poem; write three lines, and then stop. Years would pass, and then suddenly one day he would add two more lines, then stop. Forty thousand incomplete poems! Just before he died, somebody asked: 
"What have you been doing? These are such beautiful things, why don't you complete them?" 
He said: 
"How can I complete them? I never wrote them, they came. When they come, they come; when they don't come, they don't come. What can I do? They cannot be pulled; they cannot be forced to come. I don't know from where they come: out of the blue a line descends. Sometimes the whole poem comes in succession, sometimes not, and nothing can be done because I don't know from where they come. In fact, when they come I am not. I am so dazed, I become just a void. So how can I complete them?"
 
That's why ancient poems exist without any signature. 
 
Nobody knows who wrote them. 
 
Who wrote the Upanishads, the greatest of poems - who wrote them, nobody knows. 
 
The authors never signed them; they never signed them because they felt so humble. They were not the makers, not the creators.
 
When Ninagawa was asked, "who are you?" if he had been just like other poets, ordinary poets and writers and authors, too filled with their own egos, he would have said something like, 
"you don't know that I am a Nobel Laureate, a Nobel Prize winner, and that the emperor has praised me and appointed me as the royal poet?" 
 
No, Ninagawa said:
 
 
"A DEVOTEE OF BUDDHISM."
 
 
He didn't talk about poetry, 
he didn't talk about his famous name, 
he didn't talk about himself at all. 
He simply said:
 
 
"A DEVOTEE OF BUDDHISM"
 
 
- a devotee of Buddha. A devotee - 
that showed that he was there because of his heart, because of his love. He was there not because of his reasoning; he was there because of his feeling. Just a devotee.
 
 
IKKYU: "YOU ARE FROM?" NINAGAWA: "YOUR REGION."
 
 
A beautiful metaphor. 
In fact he was from the region, from the same part of the country, from where Ikkyu came. But he was not talking about that. He was talking about the inner region, the inner search: 
"Maybe you are far ahead, maybe you have reached, and I am just a beginner, but I belong to the same region, the search is the same. I am a fellow traveller." 
Once your heart is filled with the urge to know the truth, you become a fellow traveller of all the Budha’s.
They have reached : you will reach. 
May be it will take many, many lives, but that makes no difference - you have started on the path. You may be just at the beginning, but now you are a fellow traveller.
 
Says Ninagawa: 
 
 
"YOUR REGION."
 
 
I belong to the same part of the world to which you belong.
 
 
IKKYU: "AH. AND WHAT'S HAPPENlNG THERE THESE DAYS?"
 
 
He goes on poking at him, provoking him; maybe he is just a pretender trying to deceive, saying beautiful things learned somewhere, borrowed. He may have been a scholar of Zen classics where such dialogues are given. But he cannot escape Ikkyu. If he is a pretender, he will fall somewhere or other.
 
 
"AH. AND WHAT'S HAPPENING THERE THESE DAYS?"
 
 
Ikkyu brings him back and back. 
He understands what Ninagawa is saying, what he means by "your region", but he doesn't allow it for a moment. So he says: "What is happening there these days?" 
 
Who has become the prime minister there? 
Whose wife has moved with whom?
Some rumor, some gossip; what is happening there? 
 
Some events must have taken place - somebody died, somebody got married. Events - what is happening there?
 
 
NINAGAWA: "THE CROWS CAW, THE SPARROWS TWITTER."
 
 
Prime ministers, ministers, and their world, politics, the market, economics, are not real history. They are just accidents; they happen on the periphery. 
 
They are not part of eternity, 
they happen in time. 
 
What is eternal is the only news for those who know, and what is accidental is the only news for those who don't know.
 
 
NINAGAWA: "THE CROWS CAW, THE SPARROWS TWITTER."
 
 
This is the eternal news, which has always been happening and is happening still. 
 
Summer and winter, nature flows, and clouds come and go. This is eternity. In the morning the sun rises, and in the evening the sun sets, still. And in the night there are stars in the sky with their subtle music. This is all. That is the real news. The crows don't bother who has become the prime minister, and the sparrows don't pay a single, a single bit of attention to the world of events. Only man is filled with this junk.
 
Henry Ford has said: 
"History is bunk." 
It is rare for something like this to come from a very rich man, but it is true. 
 
What does it matter whether Napoleon wins or is defeated? Who rules? 
 
The eternal moves, not even aware that these things are happening.
 
What is Ninagawa saying? He is saying it is always the same:
 
 
THE CROWS CAW, THE SPARROWS TWITTER. "AND WHERE DO YOU THINK YOU ARE NOW?"
 
 
Ikkyu's hard - from another dimension he attacks.
 
 
"AND WHERE DO YOU THINK YOU ARE NOW?" NINAGAWA: "IN A FIELD DYED DEEP VIOLET."
 
 
The temple was known as the violet field, Murasakino. 
 
 
IKKYU: "WHY?"
 
 
Why do you call it that? 
You are in a field dyed deep violet. 
Why do you call it "DYED DEEP VIOLET?"
 
 
NINAGAWA: "MISCANTHUS, MORNING GLORIES, SAFFLOWERS, CHRYSANTHE- MUMS, ASTERS."
 
 
Flowers all over. 
Ninagawa doesn't say that this was the name of the temple - violet field. Names belong to the memory, to the past, and the master was asking about the now. And now, all over, all around are flowers:
 
 
MISCANTHUS, MORNING GLORIES, SAFFLOWERS, CHRYSANTHEMUMS, ASTERS.
 
 
They were giving the whole place a deep violet colour. When Ikkyu asked about the now, Ninagawa talked about the now.
Ikkyu is really impossible; he won't relax. He asks: 
 
 
"AND AFTER THEY'RE GONE?"
 
 
These flowers are here now, okay, so you call it a deep violet colour, a violet field. But soon these flowers will be gone, then what will you call it, after they are gone?
 
 
NINAGAWA: "IT IS MIYAGINO - THE FIELD OF AUTUMN FLOWERING."
 
 
This is to be understood. 
 
Clouds come and go - these are two aspects of the same coin. 
 
Flowers flower, then disappear - these are also two aspects of the same phenomenon. 
 
Absence and presence are not opposite: they are two aspects of the same thing. 
 
Now there are flowers, so it is called the violet field, and when the flowers are gone people will say that this is the field of the absence of these autumn flowers. It will still be the violet field, but from the other side, the absence.
 
 
It happened once that a Zen master loved his mother very much. In fact, before he became a Zen disciple, his father died. He wanted to become a Zen monk, but his mother said: "I am poor, and I am alone, and your father is dead." So he said: "Don't worry. Even when I become a monk, I will be your son and you will be my mother. I am not renouncing, you are not losing anything." So the mother allowed him to become a monk.
He loved the mother very much. He would go to the market to purchase things for her, and people would laugh. They would say: "We have never seen a monk purchasing things." Buddhist monks simply beg; and not only would he not be begging, he would be purchasing meat and fish, and people would simply ridicule him. This was too much.
Of course he was buying these things for his mother, not for himself; she liked them and she was not a nun or a religious person. Then the mother, seeing that people laughed, that the whole town laughed about a monk purchasing fish, became a vegetarian. And because people laughed about him purchasing things, she said: "Don't go. I will purchase them myself." He continued to be a devoted son.
 
Then one day he went to preach somewhere and the mother died when he was not there. He came just in time; the dead body was there and people were getting ready to take it to the cemetery.
He came near the body and said: "Mother, so you have left?" And he himself replied: "Yes, son, I have left the body." Then he said: "Don't be too worried, because soon I will also be leaving the body." Then he replied, from the mother's side: "Good, I will wait for you." And then he told the people: "I have said good-bye to my mother. The dialogue is over. The funeral is over. Now you can take the dead body." Somebody asked: "We cannot follow, what is the matter? To whom were you talking?" He said: "To the absence of my mother, because that is another aspect of her being." They asked: "But why were you answering?" He said: "Because she could not answer, so I had to do both. Absence cannot answer, so I had to answer from her side. But she is there, as she was before, only now she is in her absent aspect."
 
 
So when Ikkyu asked:
 
 
"AND AFTER THEY ARE GONE?"
 
 
Ninagawa said:
 
 
"IT IS MIYAGINO - THE FIELD OF AUTUMN FLOWERING."
 
 
It is the same field, but in an absent aspect
 
Manifested or un-manifested, 
being or non- being, 
life or death, 
are two aspects of the same phenomenon. 
 
There is nothing to choose, and those who choose are stupid, and unnecessarily fall into suffering. 
 
Now amazed, Ikkyu asked the last question:
 
 
WHAT HAPPENS IN THAT FIELD?"
 
 
- when flowers are gone?
 
 
NINAGAWA: "THE STREAM FLOWS THROUGH, THE WIND SWEEPS OVER."
AMAZED AT NINAGAWA'S ZEN-LIKE SPEECH, IKKYU LED HIM TO HIS ROOM AND SERVED HIM TEA.
 
 
Remember, 
it is Zen-like, but it is not exactly Zen. 
 
He is a poet, and a very great poet of deep understanding, but the highest of poetry is just the beginning of Zen, the beginning of religion.
 
It is Zen-like stuff. 
 
He understands he has a certain glimpse, he is open, he feels, he has groped in the dark and he knows a certain quality; through his own enquiry he has stumbled upon it. 
 
But still it is just a glimpse. 
 
Sometimes it can happen - a dark night, a sudden lightning, and you have a glimpse. Then again there is darkness. This is what happens to the greatest poet: he is just on the boundary line from where he can have glimpses of the beyond. 
But they are glimpses. 
 
They are Zen-like.
 
 
When will they become Zen? 
 
 
They will become Zen only when they are no longer glimpses, but have become your very being. 
 
Then you live in them from moment to moment, they don't come and go. 
 
They have simply become your innermost being, the way you are. It is not like lightning, it is full noontide, it is day; the sun is high in the sky and remains there; there is no possibility of darkness coming again. It is not a glimpse, it has become part of you, you carry it wherever you go. 
The inner light is burning now - you don't depend on accidents, you have settled in it, it has become your home.
 
Trying to reach reality through the head is just like someone trying to see through the ears. It is not possible. Ears can hear, but cannot see. 
 
Trying to reach reality through the heart is like trying to see with the hands. The hands cannot see, but they can still give a glimpse of what seeing can be.
 
A blind person, if he loves a woman, touches her face, feels the curves, touches the body, feels the roundness, the warmth and the marble-like texture, then through the hands comes a certain glimpse of seeing. 
Hands can give you a certain glimpse of seeing, not exactly seeing because how can hands see? They can only grope. But when you touch a face with closed eyes, you can feel the curves, the nose, the eyes, the way the face is.
 
A poet is like a hand, he feels the nature of reality with his hands. Certain glimpses come to him, Zen-like. 
 
And a real man of Zen is like eyes, he is not groping, he has no need to touch with the hand - he can see.
 
 
AMAZED AT NINAGAWA'S ZEN-LIKE SPEECH, IKKYU LED HIM TO HIS ROOM AND SERVED HIM TEA.
 
 
These are symbols showing that you are allowed - come nearer and closer.
 
 
...AND SERVED HIM TEA.
 
 
Tea is a Zen symbol which means awareness, because tea makes you more alert, more aware. 
 
Tea was invented by Buddhists and for centuries they have used tea as a help in meditation. And tea is helpful. If you take a cup of tea, strong, and then sit in meditation for at least one hour you will not feel sleepy, and you can remain aware. Otherwise, whenever you feel silent, and sit relaxed, sleep comes. To avoid sleep, tea has helped.
 
The story is that Bodhidharma was meditating on a certain mountain in China called "Ta". 
From that "Ta" comes the name "tea". 
That mountain can be pronounced as "Ta", or "Cha"; that's why in India tea is called "chai", or "cha".
 
Bodhidharma was meditating; he was really a great meditator. He liked to meditate for eighteen hours, but it was difficult. He would feel sleepy again and again, and his eyelids would drop, again and again. So he cut off his eyelids and threw them away, now there was no possibility of closing the eyes. 
 
The story is beautiful - those eyelids became the first seeds of tea, and a certain plant came out of them. Bodhidharma prepared the first tea in the world out of the plants, and he was amazed to find that if you took the leaves and drank them, you could remain alert for longer periods. So for centuries Zen people have been drinking tea, and tea has become a very, very sacred thing.
 
When a Zen master serves tea, it is a metaphor. 
He is saying: Be more aware. 
 
You are on the right path, he says to Ninagawa, you are on the right path, but you are walking a little sleepily. 
You have found the direction; now move in the same direction. 
Soon your Zen-like being will become Zen, but you will need to be more aware.
 
 
AMAZED AT NINAGAWA'S ZEN-LIKE SPEECH, IKKYU LED HIM TO HIS ROOM AND SERVED HIM TEA.
 
 
He is serving awareness, a cup full of awareness. It is a symbol to indicate that he should become more aware, that's all that he needs.
 
 
THEN IKKYU SPOKE THIS IMPROMPTU VERSE:
"I WANT TO SERVE YOU DELICACIES. ALAS! THE ZEN SECT CAN OFFER NOTHING."
 
 
It has two meanings. The ordinary meaning is that in the Zen sect delicacies are not allowed. Very simple food is allowed; rice, a few vegetables, tea - no delicacies. So the first, the ordinary meaning is:
 
 
I WANT TO SERVE YOU DELICACIES. ALAS! THE ZEN SECT CAN OFFER NOTHING.
 
 
This is the last effort of Ikkyu to penetrate him to the deepest core, to see whether he can understand the meaning or not.
The second meaning is:
 
 
I WANT TO SERVE YOU DELICACIES ALAS! THE ZEN SECT CAN OFFER... only NOTHING.
 
 
I can offer nothing. It can mean: I cannot offer anything, or it can mean: I can offer you only nothing. Then nothing is offered. Awareness and nothingness are two aspects of the same thing. The more you become aware, the more you feel being nothing.
 
So first Ikkyu served tea to say: Become aware. 
Then he says: Alas! I cannot offer anything - except nothing.
 
This is the last net thrown by the master. 
After he had given the tea, if Ninagawa had been a pretender, he would have relaxed. He would have thought: "I am accepted. The master has led me to his tea-room, offered me tea, served me tea. I am relaxed." After taking tea he would have relaxed, because you cannot pretend for long. Pretension is such a strain that one relaxes. And when the master has served and given you tea, now there is no need to pretend, everything is finished. So it was the last trap.
Ninagawa replied:
 
 
"THE MIND WHICH TREATS ME TO NOTHING IS THE ORIGINAL VOID - A DELICACY OF DELICACIES."
 
 
No. He had a really Zen-like understanding; he was not a mere poet. Something of the real poetry of existence had happened to him. He could immediately understand. He could be immediate and he could respond. He said:
 
 
"THE MIND WHICH TREATS ME TO NOTHING IS THE ORIGINAL VOID - A DELICACY OF DELICACIES."
 
 
Nothing is the delicacy of delicacies - more than that cannot be offered. That is the last delicacy, the last taste of existence itself. It is as if you have eaten God himself - the delicacy of delicacies.
 
 
DEEPLY MOVED, THE MASTER SAID: "MY SON, YOU HAVE LEARNED MUCH."
 
 
This learning is not knowledge. 
Zen makes a difference between learning and knowledge; let me explain it to you. 
 
 
Knowledge is borrowed: 
 
learning is yours.
 
 
Knowledge is through words, language, concepts: 
 
learning is through experience. 
 
 
Knowledge is always finished: you know it, it is complete. 
 
Learning is never complete; it is always on the way. Learning is a process - one goes on and on and on, to the very last moment one goes on learning. 
 
 
Knowledge stops somewhere, and becomes the ego. 
 
Learning never stops, it remains humbleness. 
 
 
Knowledge is borrowed: you cannot deceive a master by your knowledge, because your words will be just on the surface; deep down your being will show. Your words cannot hide you. For a master your words are transparent. Whatsoever you show that you know he can always see behind to what is really there. 
 
This man would have been caught by Ikkyu if he had been a man of knowledge. But no, he was really a man of learning: he had learned, he was not pretending. Through many experiences of life, existence, he had learned much.
 
 
"MY SON", SAID IKKYU, "YOU HAVE LEARNED MUCH".
 
 
And this is very much from a Zen master, because they are very miserly about saying such things. When a Zen master says such a thing he means it. And he can say such a thing only when he is really moved, when he really feels the authentic. Only then, otherwise not.
 
Look into this story, and feel yourself parallel to it. 
 
Have you learned, 
or 
have you only gathered knowledge? 
 
Let it become a very fundamental law: don't react through knowledge, react - that is, respond - spontaneously. 
 
Only then will you be closer and closer to me, and only then, one day, can I lead you in and serve you tea. Otherwise you can just be physically closer to me and that won't help. 
 
I have to serve awareness to you and 
I have to give you the delicacy of delicacies - 
nothingness.
 
 
 
 
sammasatiサマサティ
(right remembrance)
正しく想起する。
 
 
『The last word of Buddha was, sammasati. 
Remember that you are a buddha – sammasati.』
 
 
瞑想と愛 meditation & love
 
 
 
 
beloved osho
prem mashal
 
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この講話の和訳された本はこちらです。
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