osho tarot

osho transformation tarot

Single-Pointedness

Single-Pointedness 
 
f:id:premmashal:20170923234251j:image
 
Single-Pointedness / 一点に向ける
 
Saraha and the arrowsmith woman
 
サラハと矢作の女
 
 
 
commentary(解説)…
 
学識のある者は
生気あふれる者のところに行かなければなりません。
 
The learned has to go the vital.
 
人工のものは
〈真実なるもの〉のところに行かなければなりません。
 
The plastic has to go the real.
 
 
 
osho…
 
「サラハの王の歌」
 
 
気高き文殊師利に礼拝す
限りあるものに勝利せし者に礼拝す
 
おだやかな水   風にあおられ
波やうねりに変わるよう
王はあまたの思いあつむ
ひとりなる   サラハの身に
 
目を細め見る愚か者
ひとつの灯りを二つに見る
見る者と見られしもの   二つならざるとき
ああ!      心は両者の本源におよぶ
 
家の灯りはともるとも
盲は闇に生きつづく
内にいだきし近き自然も
迷う者にはつねにはるか
 
あまたの川も   いたる海はひとつ
あまたの偽りも   うち勝つ真理はひとつ
ひとつなる太陽の昇るとき
いかなる深き闇も去りゆく
 
 
 
 
ゴータマ・ブッダは地球を歩いた
最も偉大な導師 master だ。
 
 
キリストは偉大な導師 master だ、
クリシュナも、
マハヴィーラも、
そしてもっと多くいる
…しかしゴータマ・ブッダは最も偉大な導師 master のままだ。
 
 
ゴータマ・ブッダが光明 enlightenment を得たことが
他の人よりも偉大だというのではない
…光明 enlightenment に大きいも小さいもない…
 
 
ゴータマ・ブッダ
マハヴィーラやキリストやツァラトゥストラ老子
同じ意識の質に達した。
 
 
光明 enlightenment を得た人が
他の光明 enlightenment を得た人よりも
もっと得たという質問はない。
 
 
しかし
導師 master であるということに関するかぎり、
ゴータマ・ブッダは比類なき人だ
…なぜなら、
彼を通して、何千もの人々が
光明 enlightenment に至ったからだ。
 
 
それは他の導師 master ではけっして起こらなかった。
 
 
彼の系統は最も実り豊かな系統だ。
 
彼の一門は今に至るまで最も創造的な一門だ。
 
彼はとても多くの枝のある大きな木のようだ
…そしてそれぞれの枝は実り豊かだ、
それぞれの枝はたくさんの果実が実っている。
 
 
マハヴィーラは地域的な現象のままだった。
クリシュナは学者たちの手の中に落ちて失われた。
キリストは聖職者たちによって完全に破壊された。
 
たくさんのことが起こりえたのだが、
しかしそれは起こらなかった。
ゴータマ・ブッダはこの中では
途方もなく幸運だった。
 
聖職者たちが試してみなかったのではない、
学者たちが試してみなかったのではない
彼らはやれることはすべてやった
しかし
どういうわけか
ゴータマ・ブッダの教えは破壊されることができないように工夫されていた。
 
それは今も生きている。
 
25世紀たっても、
少しの花々が彼の木におとずれ、
それはまだ開花している。
 
春が来ると、
そして花々は香りを放ち、
今も実を結んでいる。
 
 
 
サラハもまた同じ木の果実だ。
サラハはゴータマ・ブッダのおよそ2世紀後に生まれた。
彼は枝分かれした直系の中にあった。
 
 
一枝はゴータマ・ブッダからマハカーシャッパ
そしてボーディダルマへ、そして禅が生まれた
…その枝は今も花に満ちている。
 
 
もう一つの枝はゴータマ・ブッダの息子である、ラーフラ バドラからシュリ キールティ、
シュリ キールテからサラハ、
サラハからナーガールジュナへと伝わった
…それはタントラの枝だ。
それは今もチベットで実を結んでいる。
 
 
 
タントラはチベットで改宗した、
そして
ボーディダルマが禅の祖師であるように
サラハはタントラの祖師だ。
 
ボーディダルマは中国と韓国と日本で成功した。
 
サラハはチベットで成功した。
 
 
 
 
この『サラハの歌』はすばらしく美しい。
 
それはタントラの基盤そのものだ。
 
あなたは最初に
生にたいするタントラの姿勢、
生のタントラのヴィジョンを
理解しなければならない。
 
 
タントラに関するもっとも基本的なこととは、こういうことだ、
 
…それはとても急進的、革命的、反逆的だ…
 
その基本的なヴィジョンは
 
世界は
低いもの lower と高いもの higher にと
分けられてはいない、
 
しかし
 
世界は1つである。
 
高いもの higher と低いもの lower は
手をつないでいる。
 
高次 higher のものは低次 lower のものを含み、
低次 lower のものは高次 higher のものを含む。
 
高いもの higher は低いもの lower の中に
隠されている
 
…だから低いもの lower は
否定されたり、
非難されたり、
破壊や殺されたりしてはならない。
 
低いもの lower は『変容 transform』されるべきだ。
低いもの lower は高みへと動くことを許されるべきだ。
そして
低次 lower のものは高次 higher のものになる。
 
 
悪魔 devil と神 god の間に
橋渡しできない隙間 gap はない
 
…悪魔 devil は
ハートの奥深い中に
神 god をいだいている。
 
ひとだびそのハートが働きはじめたら、
悪魔 devil は神 god になる。
 
それゆえ
「悪魔 devil」 という言葉の語源そのものが
「神性 divine」と同じものを意味している。
 
「悪魔 devil」 という言葉は
「神性 divine」から生じた、
 
それはいまだ進化していない神性 divine である、それだけのことだ。
 
悪魔 devil が神性 divine に対立しているわけではない、
 
悪魔 devil が神性 divine を破壊しようとしているわけではない
 
…実は、
悪魔 devil は神性 divine を見つけだそうとしている。
 
悪魔 devil は神性 divine へと向かう途上にある、
 
それは敵 enemy ではない、
それは種 seed だ。
 
神性 divine は満開に花を咲かせている木 tree だ
そして
悪魔は種 seed だ
 
…しかし、木 tree は種 seed の中に隠されている。
 
そして、種 seed は木 tree に対立してはいない、
実際には、木 tree は種 seed がなければ存在することができない。
 
そして、木 tree は種 seed に対立してはいない
…両者は深い友情のなかにある、
両者は1つだ。
 
 
 
毒 poisonと甘露 nectar は
同じエネルギーの2つの相だ、
 
生 life と死 dfath もそうだ
 
…あらゆるものがそうだ、
 
昼 day と夜 night、
愛 love と憎しみ hate、
セックス sex と超意識 superconciousness。
 
 
 
タントラは言う、
 
けっしてなにものも非難してはならない
 
…非難する態度は愚かな態度だ。
 
なにかを非難することにより、
もしあなたが低いもの lower を進化させることができるかもしれない
あなた自身の可能性を否定している。
 
泥を非難してはならない、
 
なぜなら
泥の中には蓮の花が隠されているからだ、
蓮の花を生みだすために泥を使いなさい。
 
もちろん、泥はまだ蓮の花ではない、
しかしそれはできるだろう。
 
 
そして
創造的な人は、
宗教的な人は、
蓮の花が泥から解放されることを助けるだろう
そうしたら
蓮の花は泥から自由になることができる。
 
 
 
サラハはタントラ・ヴィジョンの祖師だ。
 
それはとほうもなく重要だ、
そして人類の歴史の中でも
とりわけ現在という瞬間では、
 
なぜなら
新しい人間が生まれ出ようと奮闘し、
新たな意識が扉をたたいているからだ。
 
そして未来はタントラのものになるだろう、
 
なぜなら今では
二元性 dual の姿勢が
人のマインド(思考)mind をとらえることはできないからだ。
 
 
彼らは何世紀にもわたり試され、
彼らは人間を不具にし、
彼らは人間に罪の意識を作らせた。
 
 
そして
彼らは人間を自由にすることなく
人間を囚人にしてしまった。
 
また
彼らは人間を幸せにすることもなく、
彼らは人間をとても惨めにしてした。
 
彼らはあらゆるものを非難する
 
食べ物からセックスまで全てを非難する、
人間関係から友情まで全てを非難する。
 
愛は非難され、
肉体は非難され、
マインド(思考)は非難される。
 
あなたが立つところは1インチも残されていない、
すべては奪い去られ
そして
人間は宙づりになっている、
ただぶら下がっている。
 
 
 
この人間の状況をこれ以上見過ごすことはできない。
 
タントラはあなたに新しい展望をもたらすことができる
それゆえ私はサラハを選んだ。
 
 
 
サラハは私がもっとも愛している人の1人だ。
それは古くからの私の恋愛だ。
あなたはサラハの名前を聞いたことさえないかもしれない、
しかし
サラハは人類にとってもっとも偉大な恩人の1人だ。
 
もし私が
人類の恩人を10人ほど指折り数えるとしたら、
サラハはそのうちの1人になる。
もし5人を数えるとしても、
サラハを落とすわけにはいかない。
 
 
 
『サラハの歌』に入ってゆく前に、
サラハの生涯についていくらか話しておこう、
 
サラハ saraha はヴィダルバに生まれた、
ヴィダルバはマハーラーシュトラ州にある。プーナ poona のとても近くだ。
 
彼はマハーパーラ王が統治者の時代に生まれた。
彼はマハーパーラ王の宮廷の
とても学識のあるバラモンの息子だった。
 
父が宮廷にいたため
その若者もまた宮廷にいた。
彼は4人の兄があり、
彼らはみな偉大な学者だった、
彼は末っ子で兄弟の中でもっとも賢かった。
 
彼の名声はやがて国中に広まり、
王も彼のすばらしい知性に魅了されるほどだった。
 
4人の兄弟もまたとても偉大な学者だったが、
サラハとは比べものにならなかった。
成人するとその4人は結婚した。
 
王はサラハに自分の娘を与えたいと思っていた、
しかし
サラハはすべてを放棄したかった
…サラハはサニヤシン(探究者)になりたかった。
 
王は傷ついた、
彼はサラハを説得しようと試みた
…サラハはとても美しい
そして彼はとても賢い
そして彼はなんともハンサムな若者だった。
彼の名声は国中に広まった、
彼のおかげでマハーパーラの宮廷は有名になっていた。
 
王はとても心配した、
そして彼はこの若者がサニヤシンになることを望まなかった。
彼はサラハを守り、
可能なかぎり全ての安楽を彼に与えてあげたかった
…彼はサラハになんでもする用意があった。
 
しかしサラハは主張した
そして許しは与えられるしかなかった
…彼はサニヤシンになった、
彼はシュリ キールティの弟子 disciple となった。
 
 
シュリ キールティはゴータマ・ブッダの直系だ
…ゴータマ・ブッダ
彼の息子ラーフラ バドラ、
そしてシュリ キールティへ。
 
 
サラハとゴータマ・ブッダの間には
2人の導師 master たちしかいない、
サラハはゴータマ・ブッダからそれほど遠く離れてはいない。
 
その木はまだとてもとても青々としていたにちがいない、
その波動はまだとてもとても生き生きとしていたにちがいない。
 
ゴータマ・ブッダは去ったばかりだった。
 
その風土はゴータマ・ブッダの芳香でいっぱいだったにちがいない。
 
 
 
王はショックだった、
なぜならサラハはバラモンだった。
もしサラハがサニヤシンになりたいのなら
彼はヒンドゥー教のサニヤシンになるべきだ、
しかし
サラハは仏教の導師 master を選んだ。
 
サラハの家族もまたとても心配した。
 
実際、彼らはみな敵となった…
これは正しいことではない。
 
そしてさらに悪いことになった
…私たちはそれについて知ることになる。
 
 
 
サラハのもとの名前は「ラーフラ rahul」だ、
その名前は彼の父によって与えられた。
 
私たちはどのようにして彼がサラハになったのかを知ることになる
…それは美しい物語だ。
 
 
 
サラハがシュリ キールティをたずねたとき、
シュリ キールティは最初に彼にこう言った、
 
「『ヴェーダ』のすべて、学んだことのすべて、
そのたわごとのすべてを忘れなさい。」
 
それはサラハには難しいことだったら
しかし彼はなんでもする用意ができていた。
 
シュリ キールティの現存のなにかがサラハを魅了した。
シュリ キールティはとても磁力があった。
 
サラハは学んだことすべてを落とし、
再び無学になった。
 
これはもっとも偉大な放棄の一つだ、
富を放棄するのはたやすい、
王国を放棄するのはたやすい、
しかし
知識を放棄することはこの世の中で
最も難しいことだ。
 
第一に、どのようにして放棄するのか?
 
それはあなたの内側にある。
 
あなたはあなたの王国から逃げることはできる、
あなたはヒマラヤへ行くことはできる、
あなたはあなたの富を分かち合うことはできる
…どのようにしてあなたの知識を放棄することができるのか?
 
そして
再び無知になるには大きな痛みがともなう。
 
再び無知になり、
再び子供のように無垢になることは、
存在しうるもっとも偉大な苦行だ
…しかし彼は用意ができていた。
 
数年が過ぎ去り、
サラハは学んできたこと全てを消した。
 
彼は偉大な瞑想者になった。
 
ちょうど偉大な学者となりとても有名になったことと同じように、
今や彼の名声は偉大な瞑想者として広まりはじめていた。
 
新鮮な葉のように、
または草の上の朝露のように、
とても無垢になったこの若者を
一目見ようとして
人々が遠くから訪れはじめた。
 
 
 
ある日、サラハが瞑想しているとき、
突然、彼はヴィジョンを見た
…そのヴィジョンとは
彼の真の師となる女性が市場の中にいる
というものだった。
 
シュリ キールティはサラハを道の上に押しやったにすぎない、
しかし
真の教えは女性からくることになる。
 
 
 
さあ、これも理解すべきことだ。
 
けっして男性優位主義でなかったのはタントラだけだ。
 
実際、タントラに入ってゆくためには
知恵のある女性の協力を必要とする、
 
知恵ある女性がいなければ、
タントラという複雑な世界の中に入ってゆくことはできない。
 
 
 
サラハはヴィジョンを見た、
ある女性が市場にいる。
 
 
 
だからまず第一に女性だ。
第二に…市場の中だ。
 
 
 
タントラは市場の中でよく成長する、
生の豊かさの中で。
 
それは否定の姿勢ではない、
それは完全なる肯定性だ。
 
サラハは立ち上がった。
 
シュリ キールティは尋ねた、
 
「どこへ行くのかな?」
 
するとサラハは言った、
 
「あなたは道を示してくださいました。
私の学んだことを消し去ってくださいました。
あなたは仕事の半分をしてくれました
…私の石盤をきれいにしてくれました。
今や私は残りの半分をする用意ができています。」
 
笑顔を浮かべたシュリ キールティの祝福を受け、サラハは立ち去った。
 
 
 
サラハは市場へと行った。
彼は驚いた、
彼は本当にヴィジョンの中で見た女性を見つけたのだ。
 
その女性は矢を作っていた、
矢作の女だった。
 
 
 
 
タントラに関して覚えておく第3のことは、
文明的で教養がある人ほど
タントラ的な『変容 transform』の可能性は少なくなる。
 
文明的ではなく
素朴であるほど
人は生き生きとする。
 
あなたがもっと文明的になるほど、
あなたはもっとプラスチックになる
…あなたは人工的になる、
あなたがあまりにも文明的になると、
あなたは地球の中のあなたの根を失う。
 
 
あなたは泥の世界を恐れている。
あなたは世界から離れて生きるようになる、
あなたは世界にいないかのようなふりをしはじめる。
 
 
タントラは言う、
本物の人を見つけるためには
あなたは根源へと行かなくてはならない。
 
 
だからタントラは言う、
いまだに
文明的ではない、
教養を受けていない、
文化のない
人たちはより生き生きとして
彼らはより生命力があふれている。
 
 
そしてそれは現代の心理学者が観察したことでもある。
 
黒人はアメリカ人より活力がある
…それがアメリカ人の恐れていることだ。
アメリカ人は黒人をとても恐れている。
その恐れとは
アメリカ人はとてもプラスチック(人工的)になってしまい、
そして
黒人はまだ活力があり、地球に根ざしている。
 
アメリカの中での黒人と白人の間の葛藤は
本当は黒人と白人の葛藤ではなく、
それは
本物とプラスチック(人工的)の間の葛藤だ。
 
そしてアメリカ人が、白人のことだが、
とても恐れているのは、
根本的に彼らが恐れているのは
もし黒人が認められたら、
白人は女性を失うだろう、
白人のアメリカ人は女性を失ってしまう。
 
黒人はより活力があり、
性的により活力がり、より生き生きとしている、
彼らのエネルギーはいまだに野性的だ。
そしてそれは文明化された人々の最大の恐れの1つだ、
彼らの女性を失うこと。
 
彼らは知っている
もしより活力のある人がいるならば、
彼らは彼らの女性をとらえておくことができないことを。
 
タントラは言う、
いまだに素朴な人たちの世界の中では、
彼らは成長がはじまる可能性があると。
 
あなたは間違った方向へと成長した、
彼らはまだ成長していない
…彼らはまだ正しい方向を選択できる、
彼らはより多くの潜在力がある。
そして
彼らは消し去るものはなにもない、
彼らは直ちに進めることができる。
 
 
 
矢作の女は低いカーストの女性だ、
 
そしてサラハにとって
…王の法廷に属していた学識ある有名なバラモンにとって…
矢作の女のところに行く
ということは象徴的だ。
 
 
 
学識のある者は
生気あふれる者のところに行かなければならない。 
Learned had to go to the vital.
 
 
人工的な作り物は
本物のもとに行かなければならない。
The plastic had to go to the real.
 
 
 
彼はこの女性を見た、
若い女性だ、
とても生き生きとして、
生命力で光輝いている、
矢柄を削り、
右も左も見ることなく、
しかし
矢を作ることに全身全霊で没頭している。
 
彼はすぐに彼女の現存の中になにか特別なものを、
なにか彼がけっして出会ったことがないものを感じた。
 
彼の導師 master であるシュリ キールティでさえ、
この女性の現存の前では薄くなる。
 
なにかがとても新鮮だ
そして
なにかまさに源泉から…
 
 
シュリ キールティは偉大な哲学者だった。
そうだ、彼は学んだ全てを落とすようにサラハに言った、
しかし
彼はまだ学識ある男だった。
 
彼は全てのヴェーダや教典を落とすようにサラハに言った、
しかし
彼は彼自身のヴェーダや教典を持っていた。
 
たとえ彼が反哲学者であったとしても、
彼の反哲学者は一種の哲学だった。
 
 
さあ、ここに哲学者でも反哲学者でもない女性がいる
…哲学がなんであるのかをまったく知らない人、
思考や哲学の世界をまったく知らない至福な人。
 
彼女は行動 action の女性、
そして
彼女は彼女の行動の中に完全に没頭している。
 
 
 
サラハは注意深く見た、
矢は用意された、
その女性は片目を閉じてもう片方の目を開けた、
見えない的に狙いを定める姿勢をした。
 
サラハはさらに近づいて行った。
さて、そこには的はなかった、
彼女はたんにその姿勢をしただけだった。
 
彼女は片目をとじた、
彼女のもう片方の目は開いていた、
そして
彼女はなにか未知の的に狙いを定めていた
…目には見えない、そこにはない的に。
 
 
サラハはなにかメッセージを感じはじめた。
 
 
この姿勢は象徴的だ、
彼は感じた、
しかし
まだそれはとてもおぼろげで暗かった。
 
彼はそこになにかを感じることができた、
しかし
彼はそれがなんであるかの謎を解くことはできなかった。
 
 
 
そこでサラハは
その女性に矢作を生業としているのかと尋ねた、
 
するとその女性は大きな声で笑った、
野生的な笑い、そして言った、
 
「愚かなバラモン
あなたは『ヴェーダ』を去った、
しかし
いまやあなたはゴータマ・ブッダの言葉『ダンマパダ』を崇めている。
 
だからなにが要点なの?
 
あなたは本を取り替えて、
あなたはあなたの哲学を取り替えた、
 
しかしあなたは相変わらず同じ愚か者だわ。」
 
サラハはショックを受けた。
誰1人も彼にそんなふうに言った人はいなかった、
教養のない女性にしかそんなふうに言うことはできない。
 
そして彼女の笑い方はとても文明的ではなく、とても素朴だった
…しかしまだ、なにかとても生き生きしていた。
 
そしてサラハは魅きつけられるのを感じていた。
彼女は強い磁石であり
それは
彼はなんでもないただの鉄の欠片だった。
 
そして彼女は言った、
 
「あなたはあなたが仏教徒だと思っているの?」
 
彼は仏教の僧衣の黄色の長衣をまとっていたにちがいない。
 
そして彼女はまた笑って言った、
 
「ゴータマ・ブッダの真意は
行動 action をとおしてしか知ることはできない、
言葉や本をとおしてではなくてね。
 
あなた、もう充分じゃない?
 
まだこの全てにうんざりしてないの?
 
役にもたたない探求で
これ以上時間を無駄にしてはだめよ。
私といっしょにおいで!」
 
 
 
そしてなにかが起こった、
なにかコミュニオン(交感)のようなものが。
 
以前のサラハには感じたことがけっしてない感覚だった。
 
その瞬間に、
彼女がやっていたことのスピリチュアル(霊的)な重要性が
サラハに明らかになった。
 
 
 
左も、右も見ることなく、
彼は彼女を見た
…ただ真ん中 middle を見た。
 
 
 
はじめて彼はゴータマ・ブッダ
中道(真ん中 middle)にある
という意味を理解した。
 
 
 
はじめは哲学者、
いまは反哲学者、
…1つの極端からもう1つの極端へと。
 
彼ははじめはあることを崇めていたが、
今彼はちょうど反対のものを崇めていた
…しかし、崇めるということは続いている。
 
あなたは
左から右へ、右から左へと移動することはできるが、
しかしそれは助けにならない。
 
あなたは
左から右へ、右から左へと動く振り子のようになるだろう。
 
あなたは観察したことあるかね?
 
…振り子が右に向かっているとき、
それは左に向かう勢いをたくわえている、
 
振り子が左に向かっているとき、
それは再び右に向かう勢いをたくわえている。
 
 
 
そうして時計は続いていく、
そうして世界は続いていく。 
 
 
 
真ん中 middle にあるという意味は
振り子が右でも左でもなく、
ただ真ん中 middle にぶら下がっているということだ。
 
 
 
そのとき時計は止まる、
そのとき世界は止まる。
 
 
 
そのとき時間はもう存在しない…
そのとき無時間の状態。
 
 
 
彼はシュリ キールティから何度もその話を聞いていた、
それについて読んだことがあった。
考えをめぐらし、じっくり考えることはあった、
他人と議論したこともあった、
真ん中 middle にあることが正しいのだということを。
 
 
はじめてサラハはそれを行為の中に見た、
 
 
その女性は
右を見ることもなく
左を見ることもなく
ただ真ん中 middle を見ていた、
 
真ん中 middle に焦点を合わせていた。
 
 
真ん中 middle とは
超越 transcendence が起こるところだ。
 
 
それについて考えてごらん、
それについて熟考してごらん、
生の中で見てごらん。
 
 
 
お金を追いかけている人は狂っている、
お金狂いだ、お金だけが神になる…
 
 
ある女性がもう1人に尋ねていた、
「なぜあなたはボーイフレンドと別れたの?
何があったの?
あなた達は婚約したし、結婚するのだと思っていた
…何があったの?」
 
その女性は言った、
「私たちの宗教は違うの、
だから私たちは別れたの。」
 
その質問者は当惑した
なぜなら彼女は2人ともカトリックであることを知っていたからだ、
だから彼女は言った、
「あなた達の宗教が違うってどういう意味?」
 
女性は言った、
「私はお金を崇めているの、
そして彼は一文なしなの。」
 
 
お金だけが神だという人々がいる。
 
いつかは、その神は衰える
…衰えるはずだ。
 
お金は神になることはできない。
 
それはあなたの幻想、あなたの投影だ。
 
いつの日かあなたは
お金の中には神はいないことを、
その中には何もないという、
あなたは生を無駄にしてきたということが
わかることができるポイントにやって来る。
 
するとあなたはお金に背く、
あなたは反対の態度をとり、
あなたはお金に反対するようになる。
 
するとあなたはお金から離れ、
お金に触らなくなる。
 
あなたは今も取りつかれ続けている、
今やあなたはお金に反対しているが
お金に取りつかれたままだ。
 
あなたは左から右へと移動した、
しかし
あなたの意識の中心はいまだにお金にある。
 
 
あなたは
1つの欲からもう1つの欲へと変わることができる。
 
 
あなたはとても世俗的だった、
いつかあなたはもう一方の世俗的になることができる
…あなたは同じままだ、その病はいつまでも続く。
 
 
ゴータマ・ブッダは言う、
世俗的であることは世俗的であり、
もう一方の世俗的もまた世俗的である、
 
お金のためにあることはお金に狂っていることである、
お金に反対することはお金を追いかけ狂っていることだ、
 
力 power を探すことは愚かなことであり
逃避する escape ことは愚かなことだ。
 
ちょうど真ん中 middle であることは
賢さ wisdom の全てだ。
 
 
 
はじめてサラハはそれを実際に目にした
…彼はそれをシュリ キールティの中にさえ見たことはなかった。
それは本当にそこにあった。
 
そしてその女性は正しかった、彼女は言った、
 
「行為をとおしてしか学ぶことはできない。」
 
そして
彼女はあまりにも完全に没頭していたので
彼女を見つめながらそこに立っていたサラハを
彼女は見ることすらなかった。
 
彼女はそれほどまでに完全に没頭し、
全面的 totally に行為 action の中にいた
 
…それもまた仏教の教えだ、
 
行為 action の中に全面的 total にあることは
行為 action にとらわれないことだ。
 
To be total in action is to be free of action.
 
 
 
 
カルマ karma は作られる
なぜなら
あなたがトータル totally にその中にいないからだ。
 
もしあなたがトータル totally に没入していれば、
跡を残すことはない。
 
なんであれ全身全霊 totally で行なえば
それは完結し、
心理的な記憶を持ち運ぶことはない。
 
なんであれ不完全 imcompletely に行なえば
それはあなたについてまわり、
続いていく
…それは遺物だ。
 
そしてマインド(思考)は
それを続けて行い、
完了 complete させることを求める。
 
マインド(思考)には
ものごとを完了させようとする強い誘惑がある。
 
なんであれ完了させれば
マインド(思考)は消えてゆく。
 
もしあなたがものごとをトータル totally にやり続けていけば、
ある日突然
あなたはマインド(思考)が存在しないのを見出すだろう。
 
マインド(思考)とは
あらゆる不完全な行為の蓄積された過去なのだ。
 
 
あなたはある女性を愛したかったのに
あなたはそうしなかった、
…今やその女性は死んでしまった。
 
あなたは父親のところに行って
自分のやってきたすべてのことを
父親が傷つくようなしかたでやってきたすべのことを許してもらいたかった
…今や父親は死んでしまった。
 
今や残されたものがそのままになる。
 
もはや亡霊だ…
もはやあなたにはどうにもならない
 
…なにができるというのだろう?
誰のところに行くというのだろう?
そしてどうやって許しを求めるというのだろう?
 
友達にやさしくありたかったのだが
あなたは殻を閉ざしてできなかった。
…今やその友達はいない、
それは心を傷つける。
あなたは罪の意識を感じるようになり、後悔する。
 
ものごとはこのようにして続いていく。
 
 
 
どんな行為 action であれ全身全霊 totally で行なえば、
それにとらわれることはないし、
あなたはふり返ることもしない。
 
そして本物の人間はけっしてふり返らない
 
…なぜなら、見るものなどなにもないからだ。
 
彼にはやり残しなどなにもない。
 
ただ前へと進んでいく。
 
その目に過去のかげりはなく、
その視力は曇っていない。
 
そのような明晰さの中で
人はリアリティとはなにかを知るにいたる。
 
 
 
あなたはあなたの不完全な行為のすべてに
とても悩まされている
…まるでガラクタ置場のようだ。
 
こちらではあるものが不完全だし、
あちらでは別のものが不完全だ
…なに1つ完全ではない。
 
それを見たことがあるかな?
あなたはなにかを完了させたことがあるだろうか?
それともあらゆるものが不完全なのだろいか?
 
そして
あなたは1つのことをわきへ押しのけ
別のことをやりはじめる、
 
そしてそれが完了する前に
また別のことをはじめる。
 
あなたはますます重荷を負うようになる
 
…これこそカルマ karma というものだ、
カルマとは不完全 imcomplete な行為のことだ。
 
 
 
 
 
トータルでありなさい be total
するとあなたは自由になる。and you will be free.
 
 
 
 
 
その女性はトータルに没頭していた。
だから彼女はとても光輝いて見えた。
彼女はとても美しく見えた。
 
彼女は普通の女性だった、
しかしその美はこの世のものではなかった。
その美はトータル total な没頭によるものだった。
 
 
 
その美は彼女が両極のどちらかに偏る
極端主義者でないことからきていた。
 
 
 
その美は真ん中 middle にいること、
バランスがとれていることによるものだった。
優美さはバランスから生まれる。
 
 
 
はじめてサラハは
肉体的に美しいだけでなく、
霊性の美しさのある女性に出会った。
 
 
 
自然に、サラハは明け渡し surrender た。
 
 
 
サレンダー(明け渡し)が起こった。
トータル totally に没頭し、
なんであれ彼女のしていることに没頭し、
サラハははじめて理解した、
これが瞑想 meditation なのだと…。
 
 
 
瞑想 meditation とは
特別な時間に坐ってマントラを繰り返すことでもなく、
教会や寺院やモスクに出かけることでもない、
 
生の中にあること
…あたりまえのものごとをやり続けることだ、
 
しかし、あらゆる行為において
深遠なるものが啓示されるほどの没頭をして。
 
 
 
はじめてサラハは
瞑想 meditation とはなにかを理解した。
 
彼は瞑想 meditation をしていたし、
熱心に努力してはいた、
 
しかしはじめて
瞑想 meditation が目の前にあり、生きていた。
 
彼はそれを感じることができた。
触れることができた。
 
それは触れることができるほどのものだった。
 
 
 
さらにサラハは
片目を閉じて、
もう片方を開けるのは、
シンボル(象徴)であることを
仏教のシンボル(象徴)であることを思い出した。
 
 
ゴータマ・ブッダは言う…
 
現代では心理学者も彼に同意するだろう、
 
2500年が過ぎ
心理学はゴータマ・ブッダ
はるか昔に達していたポイントに到達した。
 
 
ゴータマ・ブッダは言う
 
マインド(思考)の半分は理由 reasons
そして
もう半分のマインド(思考)は直観 intuits だ。
 
 
マインド(思考)は2つのパートに分割され、
脳の半球にある。
 
 
左脳は理性、論理、論証的な思考、分析、哲学、神学
…言葉につぐ言葉、論証や三段論法や推論の機能をもっている。
 
左側のマインド(思考)はアリストテレス派だ。
 
 
右脳は直観的、詩的だ、
…インスピレーション、ヴィジョン、直截的な意識、直截的な気づき。
論証するのではなく…ただ知るにいたる。
推論するのではなく…ただわかってしまう。
それが「直截的な気づき」という意味だ。
それはただある。
 
 
〈真理〉は
右側のマインド(思考)によって知られ、
左側のマインド(思考)によって推論される。
 
 
 
推論は推論でしかない。
それは体験にならない。
 
 
 
突然、サラハは
その女性が片目を閉じていることを了解した、
 
彼女は理性、論理の目を閉じる象徴となるよう
片目を閉じていた。
 
そして
 
彼女は愛、直観、気づきの象徴となる
もう一方の目を開けていた。
 
 
 
さらに彼はその姿を思い出した。
 
 
 
未知なるもの
目に見えないものに
ねらいを定めているとき、
私たちは未知なるものを知る旅の途上にある
…知ることのできないものを知る旅の途上にある。
 
 
真の知とは、
知ることのできないものを知ること、
了解することのできないものを了解すること、
達成することのできないものを達成することだ。
 
 
この不可能な情熱こそ
人を宗教的な探求者にする。
 
 
そうだ、それは不可能だ。
「不可能」ということで
それが起こらないという意味ではない、
 
「不可能」ということで
それはあなたが完全に『変容 transform』しなければ起こりえないという意味だ。
 
今のままのあなたでは
それは起こることはできない
しかし
存在 beinの異なるありようもある。
 
そして
あなたは全面的に新しい人間にもなれるのだ
 
…するとそれは起こる。
 
違った種類の人間にはそれが可能になる。
 
 
だからイエスは言う、
 
「あなたが生まれ変わるまでは、
あなたはそれを知ることはない。」
 
 
新しい人間はそれを知るだろう。
 
あなたは私のところにやってきた。
 
あなたがそれを知ることはないだろう。
 
私はあなたを殺さなければならない、
私は徹底的に危険な存在でいなければならない
…あなたは消え去らなくてはならなくなる。
 
そうして
新しい人間が生まれ、
新たな意識が生じる
 
…なぜなら
あなたの内側にはなにか不滅のものが、
破壊することのできないものがあるからだ、
 
誰にもそれは破壊できない。
 
破壊できるものだけが破壊され、
破壊できないものはそこにある。
 
あなたの存在 being の中で
その不滅の要素にあなたが達するとき、
その永遠の『気づき』に達するとき、
あなたは新しい人間に、
新しい意識 consciousness になる。
 
それを通じて
「不可能」が「可能」になる、
成し遂げられないことが達する。
 
 
 
だからサラハはその姿を思い出した。
 
 
 
ねらいが定められているのは
未知なるもの、
目に見えないもの、
知ることのできないもの、
1なるものだ…それが的だ。
 
 
どのようにして存在 existance と1つになるのか?
 
 
不二 nondual がその的だ、
 
 
それは主体 subject と客体 objecy が消え去るところ、
我 i と汝 thouが消え去るところだ。
 
 
 
マルティン・ブーバーの『我と汝 I and THOU』という
大変有名な本、すばらしい本がある。
 
祈りの体験とは
”我 I - 汝 Thou” の体験だ…彼は正しい。
 
祈りの体験とは
”我 I - 汝 Thou” の体験だ、
 
 
神は”汝 Thou”であり、
あなたは”我 I”のままだ。
 
 
そしてあなたは”汝 Thou”との
対話 dialogue、
交感 communion を持つ。
 
 
しかし、仏教には祈りはない、
そして、仏教はさらなる高みへと向かう。
 
 
仏教は言う、
”我 I - 汝 Thou” の関係があったとしても、
あなたは分かれたまま、
あなたは分離したままだ、
 
たがいに呼び合うことはできても、
しかしそこに交感 communion はない。
 
交感 communion が起こるのは
”我 I - 汝 Thou” の分割がなくなったときだけだ、
主体 subject と客体 object が消え去ったとき、
”我 I - 汝 Thou” もないとき、
探求者も探求されるものもないとき
…統一 unity、調和 unison のあるときはじめて起こる。
 
 
 
このことを悟り、
この女性の行為を見つめて、
そして
〈真理〉が了解されたとき、
 
その女性は彼を『サラハ saraha』と呼んだ。
 
 
 
彼の名前はラーフラ rahul だった、
その女性は彼を『サラハ saraha』と呼んだ。
 
『サラハ saraha』とは美しい言葉だ。
 
『サラハ saraha』とは「矢を射し者」という意味だ、
 
『サラ sara』とは「矢 arrow」を意味し、
『ハ(ン)ha(n)』とは「射た have shot」という意味だ。
 
『サラハ saraha』とは
「矢を射し者 one who has shot the arrow」という意味だ。
 
 
彼がその女性の
行為の象徴的なしぐさの意味を悟った瞬間、
それらの象徴的なジェスチャー
彼がその女性が
与えようとしたものを読みとって解き明かした瞬間、
その女性が示そうとした何かを、
彼女はとほうもなくうれしそうだった。
 
彼女は踊りあがって彼を『サラハ saraha』と呼び、そして言った、
 
「さあ、今日から、
あなたはサラハと呼ばれることになるでしょう。
あなたは矢を射たわ。
私の行為の意味を理解して、
あなたは射ぬいたのよ。」
 
サラハは彼女に言った、
 
「あなたはどこにでもいるような
普通の矢作の女ではありませんでした。
ただの普通の矢作の女だと思ったことをおわびします。
私をゆるしてください、
心からおわびします。
あなたは偉大な導師 master であり、
私はあなたによって生まれ変わりました。
 
昨日までの私は本物のバラモンではありませんでした、
今日からはそうです。
 
あなたは私の導師 master であり、
私の母であり、
新たな誕生を私に与えてくれたのです。
 
私はもう同じではありません。
だからあなたは正しい
…あなたは私の古い名前を落とし、
新しい名前を授けてくれました。」
 
 
あなたたちはときどき
「なぜ新しい名前を授けるのですか?」
と私に尋ねることがある。
 
古い自己証明 identity を落とすため、
過去を忘れるため、
これ以上過去にたいする愛着をいっさいもたないためだ。
 
きっぱりとした断絶が必要だ。
 
あなたは過去と不連続にならなくてはならない。
 
ラーフラ rahul は『サラハ saraha』になった。
 
 
 
言い伝えによると、
その女性は隠れた覚者 buddha にほかならなかった。
 
経典の中で伝えられているその覚者 buddha の名は
スクナータ sukhnatha という
 
…その覚者 buddha スクナータ sukhnatha が
サラハという大いなる可能性を秘めた人を助けるためにやってきた。
 
覚者 buddha は
…スクナータsukhnatha という名の覚者 buddha は…
女性の姿をとっていた。
 
だがなぜ?
 
なぜ女性の姿だったのだろう?
 
 
 
なぜなら、タントラでは
ちょうど人が女性から誕生するしかないように、
弟子 disciple の新たな誕生も女性からくるものだと信じられているからだ。
 
 
実際、すべての導師 master は
父親というよりも母親に近い。
 
導師 master たちには女性的な質がある。
 
ゴータマ・ブッダは女性的だ、
マハーヴィーラもクリシュナもそうだ。
 
女性的な優美さ、
女性的な円満さを目にすることができる、
女性的な美しさを見ることができる、
 
その目の中をのぞきこんでも、
男性的な攻撃性は見つからないだろう。
 
 
だから覚者 buddha が女性の姿をとっていたのは
とても象徴的なことだ。
 
 
覚者 buddha はつねに女性の姿をとる。
 
男性の体で生きているかもしれない、
しかし彼らは女性的だ
 
…なぜなら
誕生するものはすべて
女性エネルギーから生まれるからだ。
 
男性エネルギーはきっかけとなることはできる
しかし誕生を与えることはできない。
 
 
導師 master はあなたを
何ヶ月も、何年も、ときには何生にもわたって、
導師 master の子宮の中に保たなければならない。
 
 
あなたがいつ生まれる用意がととのうか
けっしてわからない。
 
 
導師 master は母にならなければならない。
 
導師 master はあなたに愛を降り注げるように、
とほうもない女性エネルギーをたたえていなければならない、
 
…そうしてはじめて導師 master は破壊することができる。
 
 
 
その愛の信頼がなければ、
あなたは偽りのあなたを破壊することをゆるさないだろう。
 
どのようにしてあなたは信頼するようになるのだろう?
 
彼の愛だけが
あなたに信頼を生み出すことができる。
 
その信頼をとおして、
少しづつ、
彼は手足を切り取っていく。
 
ある日突然、あなたは消え去る。
 
ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと…
 
そしてあなたは往ってしまう。
 
「ガテー・ガテー・パーラガテー」
…往けり、往けり、消えて往けり。
 
そうして新たなるものが誕生する。
 
 
 
矢作の女性はサラハを受け容れた。
 
実は、彼女は待っていたのだ。
 
導師 master は弟子 disciple を待っている。
 
古来の伝統では言う、
「弟子 disciple が導師 master を選ぶ前に、
導師 master が弟子 disciple を選んでいる。」
 
まさにそれがこの話の中で起こっていることだ。
 
スクナータは女性の姿に隠れて
サラハがやって来るのを待ち
そして
彼を通して『変容』されたのを待った。
 
 
そして導師 master が最初に選ぶべきだというのは、
より理にかなっているようにも見える、
…なぜなら
導師 master のほうがよくわかっている、
導師 master は知っている。
 
あなたの存在 being の可能性そのもの、
潜在性そのものを
導師 master は見ぬくことができる。
 
導師 master はあなたの未来を見ることができる。
導師 master は起こりうることを見ることができる。
 
あなたが導師 master を選ぶとき、
あなたはあなたが選んだのだと思っている。
…それは違う。
 
どのようにしてあなたは導師 master を選べるのだろう?
 
そんなにも目を閉ざしているのに、
どのようにしてあなたは導師 master を認識することができるだろう?
 
そんなにも『気づき』を欠いているのに、
どのようにしてあなたは導師 master を感じとることができるのだろう?
 
もしあなたが彼を感じはじめたら、
その意味は
彼があなたのハートにすでに入り込み
そして
彼はあなたのエネルギーと戯れはじめているということだ
…だからあなたは導師 master を感じはじめる。
 
 
 
弟子 disciple が導師 master を選ばない前から、
導師 master はすでに弟子 disciple を選んでいる。
 
 
 
スクナータはサラハを受け容れた。
彼女はサラハが来るのを待っていた。
 
2人は火葬場に移り
一緒に暮らしはじめた。
 
なぜ火葬場なのか?
 
それはゴータマ・ブッダは言う、
 
「死を理解しなければ、生を理解することはできない。
死なないかぎり、生まれ変わることはない。」
 
サラハ以来
多くのタントラの弟子 disciple たちが火葬場に住むようになった。
 
サラハは創始者だ、
サラハは火葬場に住んでいた。
 
人々が運びこまれた、
死体が運びこまれて燃やされた、
そしてサラハはそこに住んでいた
…それが彼の家だった。
 
そしてサラハはこの矢作の女性と一緒に暮らしていた、
彼らは一緒に住んでいた。
 
 
サラハとスクナータのあいだには
大いなる愛が存在した
 
 
…男と女な愛ではなく、
導師 master と弟子 disciple の愛だ、
 
 
どのような男女の愛が達しうるよりもまちがいなく
高く、より親密なもの、まちがいなくより親密なものだ
 
…なぜなら、
男女の恋愛は肉体のものだけだからだ。
 
せいぜいのところ、
それはときおりマインド(思考)までとどくくらいのものだ、
さもなければ肉体的なものにとどまったままだ。
 
 
 
弟子 disciple と導師 master
…それは魂の恋愛だ。
 
 
 
サラハはソウルメイトを見いだした。
彼らは、
この地上ではまれにしか起こらない、
とほうもない愛、
大いなる愛のなかにいた。
 
 
スクナータはサラハにタントラを教えた。
 
女性だけがタントラを教えることができる。
 
 
ある人が私に尋ねた
なぜカヴィーシャをタントラのグループ・リーダーに選んだのかと
 
…女性だけがタントラのグループ・リーダーになれる。
 
それは男性にはむずかしい。
 
そうだ、ときには男にもできる、
しかしその場合、彼はとてもとても女性的でなければならない。
 
女性はすでにそうだ、
女性にはすでにそうした質が、
愛に満ちた、愛情深い質がある、
 
女性は生まれつきそうした心づかいを、
愛を、ソフトな感性をもっている。
 
 
 
サラハはこの矢作の女性の導きのもと、
タントリカになった。
 
 
 
今や彼は瞑想 meditation はしてはいなかった。
 
あるとき彼はすべてのヴェーダ、教典、知識を捨てた、
今度は瞑想 meditation さえも捨ててしまった。
 
 
今や国中に
サラハはもう瞑想 meditation していない
という噂が広がりはじめていた。
 
彼はもちろん歌ってはいたし、
踊ってもいた、
しかし
どんな瞑想 meditation もしなかった。
 
今や歌が彼の瞑想 meditation だった。
今やダンスが彼の瞑想 meditation だった。
 
今や祝祭(セレブレーション)が
彼の全ライフスタイルになっていた。
 
 
火葬場に住んでお祝いしている!
ただ死だけが起こるところで暮らし
喜びにあふれて生きている!
 
これこそタントラの美しさだ
…それは
反対のもの、
相反するもの、
矛盾するものを
1つに結びつける。
 
もしあなたが火葬場に行けば
あなたは悲しく感じるだろう、
喜びにあふれていることはあなたにはむずかしいだろう、
 
人々が焼かれ
みんなが泣き叫んだりすすり泣いたりしているところで、
歌い踊るのはあなたにはむずかしいだろああ
 
そして毎日が死、また死だ
…昼も夜も死だ。
 
どうして楽しんでなどいられるだろう?
 
しかし、
もしあなたがそこで楽しむことができないならば、
全てのあなたが考えている
あなたの喜びはただの見せかけだ。
 
もしあなたがそこで楽しむことができるならば、
そうしたら喜びは本当に起こっている。
 
今やそれは無条件だ。
 
今や
死が起ころうと生が起ころうと、
誰かが生まれようと死んでゆこうと、
なんの違いもない。
 
 
サラハは歌やダンスをはじめた。
 
彼はもう深刻ではなかった
…タントラはそうではない。
 
タントラは遊びに満ちたものだ。
 
そうだ、それは誠実だ、
しかし、深刻ではない。
 
それはとても喜びにあふれたものだ。
 
戯れがサラハの存在 being に入ってきた
 
…タントラは戯れだ、
 
なぜなら、
タントラは愛が高次に進化した姿だからだ、
 
愛は戯れだ。
 
 
 
愛が戯れであることさえ好まない人たちがいる。
 
「生殖したいときだけ愛を交わしなさい」
 
彼らは愛さえも仕事に変えてしまう
…生殖。
 
これはまったく醜悪だ!
 
生殖したいときだけ女性と愛を交わす
…彼女は工場なのだろうか!?
 
「生殖 reproduction」?
 
…言葉そのものからして醜い。
 
 
愛とは喜びだ!
 
 
幸せや喜びを感じているとき
あなたの女性と愛を交わしなさい、
あなたが世界の頂点に立っているときに。
 
そのエネルギーを分かち合うのだ。
 
ダンスや歌や喜びの質を手にしているとき
あなたの男性を愛しなさい
…生殖のためではなく!
 
「生殖」という言葉はいやらしい!
 
喜びから、溢れる喜びから愛を交わしなさい。
あなたがそれを手にしているときに与えなさい!
 
 
 
戯れがサラハの存在 being の中に入ってきた。
 
愛する者はつねに遊びの精神がある。
 
遊びの精神が死ぬ瞬間、
あなたたちは夫や妻になる、
そうなるともう恋人たちではない、
そうなるとあなたたちは生殖をする。
 
そして夫や妻になったとたん、
なにか美しいものが死んでしまう。
もう生き生きとしていない。
もう生気は流れていない。
 
今やただの見せかけ、偽善になる。
 
 
戯れがサラハの存在 being に入ってきた、
そして戯れによって真の宗教が誕生した。
 
サラハの歓喜 ecstasy はあまりに伝染性があったため
人々は彼が踊ったり歌ったりしているのを見にくるようになった。
 
そして人々は見物に来ると、
彼らは踊りはじめ、
彼と一緒に歌いはじめた。
 
その火葬場は大いなる祝祭場となった。
 
そうだ、体はいまも焼かれていた、
しかし、さらに多くの群衆が
サラハと矢作の女性のまわりに集まりはじめていた、
そして大いなる喜びがその火葬場に生み出されていた。
 
それはとても伝染しやすかったので
歓喜 ecstasy についてけっして耳にしたことのない人々もやってきた、
 
そして踊り、歌い、歓喜 ecstasy に落ち、
サマーディ samadhi に入っていった。
 
サラハの波動 vibration、
彼の現前そのものがあまりにも力強かったため
参加する用意がありさえすれば、
高みに触れる…ということが起こっていたほどだった。
 
サラハのまわりにやってきた人たち
サラハはあまりにも酔いしれていたので
その内なる酔いは他の人に向かってあるへ出していた。
 
彼はそれほどに酩酊していたので
他の人もますます酩酊しはじめていった。
 
 
 
だがそうなると避けられないことが起こる、
 
 
 
バラモンや僧侶や学者たち
そしていわゆる有徳の人たちが
彼をそしり、中傷しはじめた
 
…私はそれを避けられないことだと呼ぶ。
 
いつであれサラハのような人がいるとき、
学者たちは彼に反対し、
僧侶たちは彼に反対する、
そして
いわゆる道徳的な人たち、
厳格主義者、
独善的な人たちもそうだ。
 
彼らはサラハについて
まったく根も葉もないうわさを広めはじめた。
 
 
彼らは人々にこう言いはじめた、
「彼は堕落してしまった。
彼は背教者だ。
もはやバラモンではない。
彼は禁欲生活をやめてしまった。
もはや仏教僧ですらない。
彼は低いカーストの女性と恥ずかしい行為に耽っている
そして
そこらじゅうを狂った犬のように走り回っている。」
 
その人たちにとっては
彼の歓喜 ecstasy は狂った犬のようだった
 
…それはあなたがどのように解釈するかによる。
 
彼は火葬場中を踊り回っていた。
 
彼は狂っていた、
 
しかし
彼は狂った犬 dog ではなく
…彼は狂った神 god だった!
 
それはあなたがどのように見るによる。
 
 
 
王もまた
これらのことを耳にしていた。
彼はなにが起こっているのか、
正確に知りたいと願っていた。
 
彼は心配になった、
次から次へと人々が王のもとにやってきた。
その人たちは王のことを知っていた、
王がつねにサラハを深く尊敬していることを、
彼を宮廷の相談役として任命したいと望んでいることを知っていた、
 
しかし、サラハは世間を放棄してしまった。
 
王が彼の学識に大きな敬意をいだいていたため、
その人たちは王のところにやってきていたのだ。
 
王は心配した。
彼はその若者を愛していたし
敬意をいだいてもいた、
そして彼は心配していた。
 
だからサラハを説得して次のように言うよう、
幾人かの従者を派遣した、
「昔の道に戻ってきなさい。
あなたはバラモンであり、
あなたの父も偉大な学者だった、
あかた自身も偉大な学者だったではないか
…なにをしているのだ?
あなたは道に迷っている。
故郷に帰ってきなさい。
私はいまもここにいる!
宮殿に来て、私の家族の一員になりなさい。こんなことはよくない。」
 
従者たちが行くと
サラハは彼を改心させようとしてやってきたこの人たちに
160の詩を歌った。
 
160の詩…
 
すると従者たちは踊りはじめ
けっして戻ってはこなかった!
 
王はさらにいっそう心配になった。
王の妻、王妃も、ずっとその若者に関心をいだいていた。
彼女はその若者を自分の娘と結婚させたいと思っていた、
だから彼女はそこに出かけていった。
 
そこでサラハは80の詩を王妃に歌い…
彼女はけっして帰ってこなかった。
 
さあ、王は非常に困惑していた、
「いったいそこでなにが起こっているのだろう?」
 
だから王自身がそこに出かけていった、
 
そしてサラハは40の詩を歌い
王の心は変わってしまった、
 
そして彼は
狂った犬のように火葬場で踊りはじめた。
 
 
 
そういうわけで
サラハの名のもとに3つの経典が手に入る、
 
まず最初に、
『サラハの従者の歌』
それは160の詩からなる、
 
2番目に、
『サラハの王妃の歌』
最初のものは160の詩だが、
2番目のものは80の詩だ、
 
そして、私たちが瞑想 meditation することになる
『サラハの王の歌』
それは40の詩からなる。
 
 
 
160の詩が従者のためにあるのは
なぜなら
彼らの理解力がそれほど大きくないためだ、
 
王妃のためには80の詩だ
…彼女はもう少し高い、
彼女の理解力はもう少し高い、
 
王のためには40の詩だ
なぜなら
彼は本当に
『知性 intelligence』と
『気づき awareness』と
『理解 understanding』の人だったからだ。
 
 
 
王が改心してしまったため、
やがて国全体が、
少しづつ、変わっていった。
 
そして古い経典では
国全体が空っぽ empty になるときがやってきた
と言われている。
 
空っぽ empty!?
 
…それは仏教の言葉だ。
 
その意味は
人々は”誰でもない人 nobodies”になった、
 
彼らのエゴ(欲・自我)トリップ(罠)はなくなってしまった
という意味だ。
 
人々は今の瞬間を楽しむようになった。
 
押し合い、へし合いや、
競争的な暴力は、
国から消え失せた。
 
それは静かな国になった。
空っぽ empty になった。
…まるで誰もいないかのように。
 
人間というものが国から消え失せ、
大いなる神性がこの国に降臨した。
 
 
 
この40の詩こそ、
この根元にあった、
『源泉』そのものだった。
 
 
 
さあ、私たちはこの大いなる巡礼の旅へと入っていく、
 
『サラハの王の歌』
 
 
 
 
これらの詩、
この『サラハの王の歌』は、
深く瞑想 meditation されるべきものだ。
 
1つ1つの歌があなたのハートの中の開花となることができる。
 
私はこれら40の詩が
あなたの存在 being の中で
40の花になることを望んでいる、
 
王の存在 being の中でそうなったように。
 
王は自由を得た…あなたもそうなることができる。
 
サラハは的を射ぬいた。
 
あなたもまた的を射ぬくことができる。
 
あなたもサラハになれる…矢を射し者に。
 
 
 
 
from osho talks
oshoの講話より
 
from osho transformation tarot
osho transformation タロット より
 
The Tantra Vision, Vol 1
 
Talks on the Royal Song of Saraha
 
Talks given from 21/04/77 am to 30/04/77 am 
English Discourse series
 
Chapter 1
Chapter title: One whose arrow is shot
21 April 1977 am in Buddha Hall
 
 
この全講話の英語のダウンロードpdfはこちら。
 
 
 
chapter 1 の英語の全講話です。
 
(上の日本語のこのカードの解説はこの講話の1部であり、
昔のこのカードについていた日本語の解説です。
今のカードには英語の解説しかありません。
 
以下の英語の講話はこのお話しの全てです。
英語はなんとか読めるのですが…
翻訳とかできるような実力はないので…
間違っているかもしれませんが
あくまでも趣味で独学ですが
導師 master osho との瞑想 meditation と思って和訳してみたりしていますσ(^_^;)
 
まだ以下の英語の講話を全部訳すことができていませんが…
いつになるかわかりませんが少しづつがんばって訳していますσ(^_^;)
 
素晴らしいお話しなので英語で読める方は
是非読んでみてください。
 
また、この講話を和訳された本があります。
英語の文の後にご紹介してあります。)
 
 
 
One whose arrow is shot
 
 
 
THE ROYAL SONG OF SARAHA
 
I BOW DOWN TO NOBLE MANJUSRI
I BOW DOWN TO HIM WHO HAS CONQUERED THE FINITE AS CALM WATER LASHED BY WIND
TURNS INTO WAVES AND ROLLERS,
SO THE KING THINKS OF SARAHA
IN MANY WAYS, ALTHOUGH ONE MAN.
TO A FOOL WHO SQUINTS
ONE LAMP IS AS TWO,
WHERE SEEN AND SEER ARE NOT TWO, AH! THE MIND WORKS ON THE THINGNESS OF THEM BOTH.
THOUGH THE HOUSE-LAMPS HAVE BEEN LIT,
THE BLIND LIVE ON IN THE DARK.
THOUGH SPONTANEITY IS ALL-ENCOMPASSING AND CLOSE,
TO THE DELUDED IT REMAINS ALWAYS FAR AWAY.
THOUGH THERE MAY BE MANY RIVERS, THEY ARE ONE IN THE SEA, THOUGH THERE MAY BE MANY LIES, ONE TRUTH WILL CONQUER ALL. 
WHEN ONE SUN APPEARS, THE DARK,
HOWEVER DEEP, WILL VANISH.
 
 
 
 
GAUTAM THE BUDDHA IS THE GREATEST MASTER who has ever walked on the earth. 
 
Christ is a great Master, 
so is Krishna, 
so is Mahavir,
so is Mohammed, 
and many more
– but Buddha still remains the greatest Master. 
 
Not that his achievement of Enlightenment is greater than anybody else’s 
Enlightenment is neither less nor more – 
he has attained to the same quality of consciousness as Mahavir, as Christ, as Zarathustra, as Lao Tzu.
 
There is no question of any Enlightened man being more Enlightened than anybody else. 
 
 
But as far as his being a Master is concerned, 
Buddha is incomparable
– because, through him, thousands of people have attained to Enlightenment
 
It has never happened with any other Master. 
 
His line has been the most fruitful line.
 
His family has been the most creative family up to now. 
 
He is like a big tree with so many branches
– and EACH branch has been fruitful; 
each branch is loaded with many fruits.
 
Mahavir remained a local phenomenon. 
Krishna fell into the hands of scholars and was lost. 
Christ was completely destroyed by the priests. 
Much could have happened, 
but it didn’t happen. 
 
 
Buddha has been tremendously fortunate in this. 
Not that the priests have not tried, 
not that the scholars have not tried they have done all that they can do 
but somehow Buddha’s teaching was devised in such a way that it could not be destroyed. 
 
It is still alive. 
 
Even after twenty-five centuries, 
a few flowers come on his tree, 
it still blooms. 
 
Spring comes, and still it releases fragrance, it still bears fruit.
 
Saraha is also a fruit of the same tree. 
 
 
 
Saraha was born about two centuries after Buddha. 
He was in the direct line of a different branch. 
 
One branch moves from Mahakashyap to Bodhidharma 
and Zen is born
– and it is still full of flowers, that branch. 
 
Another branch moves from Buddha to his son, Rahul Bhadra, 
and from Rahul Bhadra to Sri Kirti, 
and from Sri Kirti to Saraha, 
and from Saraha to Nargarjuna
– that is the Tantra branch. 
 
It is still bearing fruit in Tibet.
 
Tantra converted Tibet, 
and Saraha is the founder of Tantra just as Bodhidharma is the founder of Zen. 
 
Bodhidharma conquered China, Korea, Japan. 
 
Saraha conquered Tibet.
 
 
 
These Songs of Saraha are of great beauty. 
They are the very foundation of Tantra
You will have to understand first the Tantra attitude towards life, the Tantra vision of life.
 
The most basic thing about Tantra is this
– and very radical, revolutionary, rebellious – 
the basic vision is that 
the world is not divided into the lower and the higher, 
but that the world is one piece
The higher and the lower are holding hands. 
The higher includes the lower, and the lower includes the higher. 
 
The higher is hidden in the lower
– so the lower has not to be denied, 
has not to be condemned, 
has not to be destroyed or killed. 
 
The lower has to be transformed. 
The lower has to be allowed to move upwards... 
and the lower becomes the higher. 
 
There is no unbridgeable gap between the Devil and God 
– the Devil is carrying God deep down in his heart. 
 
Once that heart starts functioning, the Devil becomes God.
 
That is the reason why the very root of the word’devil’ means the same as’divine’. 
 
The word’devil’ comes from’divine’; 
 
it is the Divine not yet evolved, that’s all. 
Not that the Devil is against the Divine, 
not that the Devil is trying to destroy the Divine 
– in fact, the Devil is trying to find the Divine. 
The Devil is on the way towards the Divine; 
it is not the enemy, it is the seed. 
 
The Divine is the tree fully in bloom and the Devil is the seed 
– but the tree is hidden in the seed. 
 
And the seed is not against the tree; 
in fact, the tree cannot exist if the seed is not there. 
 
And the tree is not against the seed
– they are in deep friendship, they are together.
 
Poison and nectar are two phases of the same energy, 
so are life and death – and so is everything: 
day and night, 
love and hate, 
sex and superconsciousness.
 
 
 
Tantra says: 
Never condemn anything
– the attitude of condemnation is the stupid attitude. 
 
By condemning something, 
you are denying yourself the possibility that would have become available to you if you had evolved the lower. 
 
Don’t condemn the mud, 
because the lotus is hidden in the mud; 
use the mud to produce the lotus. 
 
Of course, the mud is not the lotus yet, 
but it can be. 
 
And the creative person, 
the religious person, 
will help the mud to release its lotus 
so that the lotus can be freed from the mud.
 
 
 
Saraha is the founder of the Tantra vision. 
It is of tremendous import, 
and particularly for the present moment in human history
because a new man is striving to be born, 
a new consciousness is knocking on the doors
 
And the future is going to be that of Tantra
because now no more dual attitudes can hold man’s mind.
 
They have tried for centuries and 
they have crippled man and 
they have made man guilty. 
 
And they have not made man free 
they have made man a prisoner. 
And they have not made man happy either; 
they have made man very miserable. 
 
They have condemned everything from food to sex they have condemned everything; 
from relationship to friendship they have condemned all. 
Love is condemned, 
body is condemned, 
mind is condemned. 
 
They have not left a single inch for you to stand on; 
they have taken away all and 
man is hanging, just hanging.
 
This state of man cannot be tolerated any more. 
 
Tantra can give you a new perspective hence I have chosen Saraha.
 
Saraha is one of my most loved persons. 
It is my old love affair.
You may not even have heard the name of Saraha, 
but Saraha is one of the great benefactors of humanity. 
If I were to count on my fingers ten benefactors of humanity, 
Saraha would be one of those ten. 
If I were to count five, 
then too I would not be able to drop Saraha.
 
 
 
BEFORE WE ENTER into these Songs of Saraha, 
a few things about Saraha’s life: 
 
Saraha was born in Vidarbha; 
Vidarbha is part of Maharashtra, very close to Poona. 
He was born when King Mahapala was the ruler. 
He was the son of a very learned Brahmin who was in the court of King Mahapala. 
The father was in the court so the young man was also in the court. 
He had four other brothers; 
they were all great scholars, 
and he was the youngest and the most intelligent of them all. 
His fame was spreading all over the country, by and by, and the king was almost enchanted by his superb intelligence.
The four brothers were also very great scholars, 
but nothing to be compared with Saraha. 
As they became mature, the four got married. 
 
The king was willing to give his own daughter to Saraha, 
but Saraha wanted to renounce all 
– Saraha wanted to become a sannyasin. 
The king was hurt; 
he tried to persuade Saraha 
– he was so beautiful and 
he was so intelligent and 
he was such a handsome young man. 
His fame was spreading all over the country, and because of him Mahapala’s court was becoming famous. 
The king was very much worried, 
and he didn’t want this young man to become a sannyasin. 
He wanted to protect him, 
he wanted to give him all comfort possible
– he was ready to do anything for him. 
 
But Saraha persisted and the permission had to be given
– he became a sannyasin, 
he became a disciple of Sri Kirti.
 
Sri Kirti is in the direct line of Buddha 
– Gautam Buddha, then his son Rahul Bhadra, and then comes Sri Kirti. 
 
There are just two Masters between Saraha and Buddha; 
he is not very far away from Buddha. 
 
The tree must have been still very, very green; 
the vibe must have been still very, very alive. 
Buddha had just left. 
The climate must have been full of his fragrance.
 
The king was shocked, 
because Saraha was a Brahmin.
If he wanted to become a sannyasin 
he should have become a Hindu sannyasin, 
but he chose a Buddhist Master. 
Saraha’s family was also very much worried. 
In fact, they all became enemies... this was not right. 
And then things became even worse 
– we will come to know about it.
 
 
 
Saraha’s original name was’Rahul’, 
the name given by his father. 
 
We will come to know how he became Saraha 
– that is a beautiful story. 
 
 
 
When he went to Sri Kirti, 
the first thing Sri Kirti told him was:
”Forget all your Vedas and all your learning and all that nonsense.” 
 
It was difficult for Saraha, 
but he was ready to stake anything. 
 
Something in the presence of Sri Kirti had attracted him. 
Sri Kirti was a great magnet. 
He dropped all his learning, 
he became unlearned again.
 
This is one of the greatest renunciations: 
it is easy to renounce wealth, 
it is easy to renounce a great kingdom, 
but to renounce knowledge is the most difficult thing in the world. 
 
In the first place, 
how to renounce it? 
 
It is there inside you. 
You can escape from your kingdom, 
you can go to the Himalayas, 
you can distribute your wealth 
– how can you renounce your knowledge? 
 
And then it is too painful to become ignorant again. 
It is the greatest austerity there is, to become ignorant again, to become again innocent like a child... but he was ready.
 
Years passed and, by and by, he erased all that he had known. 
He became a great meditator. 
Just the same as he had started to become very famous as a great scholar, 
now his fame started spreading as a great meditator. 
 
People started coming from far and away just to have a glimpse of this young man who had become so innocent, like a fresh leaf, or like dew-drops on the grass in the morning.
 
 
 
One day while Saraha was meditating, 
suddenly he saw a vision 
– a vision that there was a woman in the marketplace who was going to be his real teacher. 
 
Sri Kirti has just put him on the way, 
but the real teaching is to come from a woman. 
 
Now, this too has to be understood. 
 
It is only Tantra that has never been male chauvinistic. 
 
In fact, to go into Tantra you will need the cooperation of a wise woman; 
without a wise woman you will not be able to enter into the complex world of Tantra.
 
He saw a vision: 
a woman there in the marketplace. 
 
So first a woman. 
Second – in the marketplace. 
 
Tantra thrives in the marketplace, in the thick of life. 
 
It is not an attitude of negation; 
it is utter positivity. 
 
He stood up. 
 
Sri Kirti asked him,
”Where are you going?” 
 
And he said, 
”You have shown me the Path. 
You took my learning away. 
You have done half the work 
– you have cleaned my slate. 
Now I am ready to do the other half.” 
 
With the blessings of Sri Kirti who was laughing, he went away.
 
 
 
He went to the marketplace. 
He was surprised: 
he really found the woman that he had seen in the vision. 
 
The woman was making an arrow; 
she was an arrowsmith woman.
 
 
 
The third thing to be remembered about Tantra
it says the more cultured, 
the more civilized a person, 
the less is the possibility of his Tantric transformation. 
 
The less civilized, 
the more primitive, 
the more alive a person is. 
 
The more you become civilized, 
the more you become plastic
– you become artificial, 
you become too much cultivated, 
you lose your roots into the earth. 
 
You are afraid of the muddy world. 
You start living away from the world; 
you start posing yourself as though you are not of the world. 
 
Tantra says: 
To find the real person you will have to go to the roots.
 
So Tantra says: 
Those who are still 
uncivilized, 
uneducated, 
uncultured, 
they are more alive, 
they have more vitality. 
 
And that’s the observation of the modern psychologist too. 
 
A negro is more vital than the American 
– that is the fear of the American. 
The American is very much afraid of the negro. 
The fear is that the 
American has become very much plastic, 
and 
the negro is still vital, still down-to-earth.
 
The conflict between the blacks and the whites in America is not really the conflict between black and white, 
it is the conflict between the plastic and the real. 
 
And the American, the white man, is very much afraid, basically 
because he is afraid that if the negro is allowed, 
he will lose his woman, 
the American will lose his woman. 
 
The negro is more vital, sexually more vital, more alive; 
his energy is still wild. 
And that is one of the greatest fears of civilized people: 
to lose their women. 
 
They know that if more vital persons are available, 
they will not be able to hold their women.
 
Tantra says: 
In the world of those who are still primitive, 
there is a possibility of starting to grow. 
 
You have grown in a wrong direction; 
they have not grown yet
– they can still choose a right direction, 
they are more potential. 
And they don’t have anything to undo; 
they can proceed directly.
 
An arrowsmith woman is a low-caste woman, 
and for Saraha 
– a learned Brahmin,
a famous Brahmin, 
who had belonged to the court of the king – 
going to an arrowsmith woman is symbolic. 
 
The learned has to go to the vital. 
 
The plastic has to go to the real.
 
He saw this woman, 
young woman, 
very alive, 
radiant with life, 
cutting an arrow-shaft
looking neither to the right nor to the left, 
but wholly absorbed in making the arrow. 
 
He immediately felt something extraordinary in her presence, 
something that he had never come across. 
 
Even Sri Kirti, his Master, paled before the presence of this woman. 
 
Something so fresh and 
something from the very source....
 
Sri Kirti was a great philosopher. 
Yes, he had told Saraha to drop all learning, 
but still he was a learned man. 
 
He had told Saraha to drop ALL Vedas and scriptures, 
but he had his own scriptures and his own Vedas. 
 
Even though he was anti-philosophical, 
his anti-philosophy was a sort of philosophy. 
 
Now, here is a woman who is neither philosophical nor anti-philosophical 
– who simply does not know what philosophy is, 
who is simply blissfully unaware of the world of philosophy, of the world of thought. 
 
She is a woman of action, and 
she is utterly absorbed in her action.
 
Saraha watched carefully: 
The arrow ready, 
the woman closing one eye and opening the other, 
assumed the posture of aiming at an invisible target. 
 
Saraha came still closer. 
Now, there was no target; 
she was simply posing. 
 
She had closed one eye, 
her other eye was open, 
and she was aiming at some unknown target 
– invisible, it was not there. 
 
Saraha started feeling some message. 
 
This posture was symbolic, he felt, 
but still it was very dim and dark. 
 
He could feel something there, 
but he could not figure it out, what it was.
 
So he asked the woman whether she was a professional arrowsmith, 
and the woman laughed loudly, a wild laugh, and said, 
”You stupid Brahmin! 
You have  left the Vedas, 
but now you are worshipping Buddha’s sayings, Dhammapada. 
So what is the point? 
You have changed your books, 
you have changed your philosophy, 
but you remain all the time the same stupid man.”
 
Saraha was shocked. 
Nobody had talked to him that way; 
only an uncultured woman can talk that way. 
 
And the way she laughed was so uncivilized, so primitive 
– but still, something was very much alive. 
 
And he was feeling pulled. 
She was a great magnet and he was nothing but a piece of iron.
 
And then she said,
”You think you are a Buddhist?” 
 
He must have been in the robe of the Buddhist monk, the yellow robe. 
And she laughed again. And she said, 
”Buddha’s meaning can only be known through actions, 
not through words and 
not through books. 
Is not enough enough for you? 
Are you not yet fed up with all this? 
Do not waste any more time in that futile search. 
Come and follow me!”
 
And something happened, 
something like a communion. 
 
He had never felt like that before. 
 
In that moment, the spiritual significance of what she was doing dawned upon Saraha. 
 
Neither looking to the left, 
nor looking to the right, he had seen her 
– just looking in the middle.
 
For the first time he understood what Buddha means by being in the middle: 
avoid the axis. 
 
First he was a philosopher, 
now he has become anti-philosopher
– from one extreme to another. 
 
First he was worshipping one thing, 
now he is worshipping just the opposite 
– but the worship continues. 
 
You can move from the left to the right, 
from the right to the left, 
but that is not going to help. 
 
You will be like a pendulum moving from the left to the right, from the right to the left.
 
And have you observed?
– when the pendulum is going to the right,
it is gaining momentum to go to the left; 
when it is going to the left 
it is again gaining momentum to go to the right. 
 
And the clock continues, 
and the world continues. 
 
To be in the middle means 
the pendulum just hangs there in the middle, 
neither to the right nor to the left. 
 
Then the clock stops, 
then the world stops. 
 
Then there is no more time... 
then the state of no-time.
 
He had heard it said so many times by Sri Kirti; 
he had read about it, 
he had pondered, contemplated over it; 
he had argued with others about it, 
that to be in the middle is the right thing. 
 
 
For the first time he had seen it in an action: 
the woman was not looking to the right and not looking to the left... 
she was just looking in the middle, 
focussed in the middle.
 
The middle is the point from where the transcendence happens. 
 
Think about it, 
contemplate about it, 
watch it in life. 
 
 
 
A man is running after money, is mad, money-mad; 
money is the only god....
 
One woman was asking another, 
”Why have you left your boyfriend? 
What happened? 
I had been thinking that you were engaged 
and that you were going to be married 
– what happened?”
 
The woman said, 
”Our religions are different, and that’s why we have broken up.”
 
The questioner was puzzled 
because she knew that both were Catholics, so she said, 
”What do you mean by saying that your religions are different?”
 
The woman said, 
”I worship money, and he is broke.”
 
There are people whose only god is money. 
One day or other, the god fails
– it is bound to fail. 
 
Money cannot be the god. 
 
It was your illusion, you were projecting. 
 
One day or other you come to the point where you can see that there is no god in it, 
that there is nothing in it, 
that you have been wasting your life. 
 
Then you turn against it, 
then you take an opposite attitude: 
you become against money. 
 
Then you leave the money, 
you don’t touch the money. 
 
You are continuously obsessed now; 
now you are AGAINST the money 
but the obsession remains. 
 
You have moved from the left to the right, 
but your center of consciousness is still the money.
 
You can change from one desire to another. 
You were much too worldly, 
one day you can become other-worldly 
– you remain the same, the disease persists. 
 
 
Buddha says: 
To be worldly is to be worldly, 
and to be other-worldly is also to be worldly; 
to be for money is to be mad after money, 
to be against money is to be mad after money; 
to seek power is foolish, to escape is also foolish. 
 
Just to be in the middle is what wisdom is all about.
 
 
FOR THE FIRST TIME Saraha saw it actually there 
– he had not even seen it in Sri Kirti. 
It was really there. 
 
And the woman was true, she said, 
”You can only learn through action.” 
 
And she was so utterly absorbed that she was not even looking at Saraha who was standing there watching her. 
She was so utterly absorbed, she was so totally in the action
– that is again a Buddhist message: 
To be total in action is to be free of action.
 
 
 
Karma is created 
because you are not totally in it. 
 
If you are totally in it, it leaves no trace. 
 
Do anything totally and it is finished, 
and you will not carry a psychological memory of it. 
 
Do anything incompletely and it hangs with you, it goes on – it is a hangover. 
And the mind wants to continue and do it and complete it.
 
Mind has a great temptation to complete things. 
Complete anything and the mind is gone. 
 
If you continue doing things totally, 
one day you suddenly find there is no mind. 
 
Mind is the accumulated past of all incomplete actions.
 
You wanted to love a woman and you didn’t love; 
now the woman is dead. 
 
You wanted to go to your father and you wanted to be forgiven for all that you had been doing, 
for all that you had been doing in such a way that he was feeling hurt
– now he is dead. 
 
Now the hangover will remain. 
 
Now the ghost.... 
Now you are helpless 
– what to do? 
Whom to go to? 
And how to ask forgiveness? 
 
You wanted to be kind to a friend but you could not be because you became closed. 
 
Now the friend is no more, and it hurts
 
You start feeling a guilt, you repent. 
Things go on like this.
 
 
 
Do any action totally and you are free of it, 
 
And the real man never looks back 
– because there is nothing to see. 
 
He has no hangovers. 
He simply goes ahead. 
His eyes are clear of the past, 
his vision is not clouded. 
In THAT clarity one comes to know what reality is.
 
You are so much worried with all your incomplete actions
– you are like a junkyard. 
 
One thing is incomplete here, 
another thing is incomplete there
– nothing is complete. 
 
Have you watched it? 
Have you ever completed anything? 
or is everything just incomplete? 
 
And you go on pushing aside one thing 
and you start another thing, 
and before it is complete you start another. 
 
You become more and more burdened 
– this is what karma is, 
Karma means incomplete action.
 
 
 
Be total... and you will be free.
 
 
 
The woman was totally absorbed. 
That’s why she was looking so luminous, 
she was looking so beautiful. 
She was an ordinary woman, 
but the beauty was not of this earth. 
The beauty came because of total absorption. 
 
The beauty came because she was not an extremist. 
The beauty came because she was in the middle, balanced. 
Out of balance is grace.
 
For the first time Saraha encountered a woman who was not just physically beautiful, 
who was spiritually beautiful. 
 
 
 
Naturally, he was surrendered. 
 
 
 
The surrender happened. 
Absorbed totally, 
absorbed in whatsoever she was doing, 
he understood for the first time: 
this is what meditation is. 
 
Not that you sit for a special period and repeat a mantra, 
not that you go to the church or to the temple or to the mosque, 
but to be in life 
– to go on doing trivial things, 
but with such absorption that the profundity is revealed in every action.
 
He understood what meditation is for the first time. 
 
He had been meditating, 
he had been struggling hard, 
but for the first time meditation was there, alive. 
He could feel it. 
He could have touched it. 
It was almost tangible. 
 
And then he remembered that closing one eye, 
opening the other, is a symbol, a Buddhist symbol.
 
Buddha says... psychologists will agree with him now; 
after two thousand five hundred years psychology has come to that point where Buddha was so long before. 
 
Buddha says half the mind reasons and half the mind intuits. 
 
The mind is divided in two parts, in two hemispheres. 
 
The left- side hemisphere is the faculty of reason, logic, discursive thought, analysis, philosophy, theology... words and words and words and arguments and syllogisms and inferences. 
The left-side mind is Aristotelian.
 
The right-side mind is intuitive, poetic – inspiration, vision, a priori consciousness, a priori awareness. 
Not that you argue 
– you simply come to know.
Not that you infer 
– you simply realize. 
That is the meaning of’a priori awareness’: 
it is simply there.
 
The truth is known by the right-side mind; 
truth is inferred by the left-side mind. 
 
Inference is just inference, 
it is not experience.
 
 
 
Suddenly he realized that the woman had closed one eye: 
 
she had closed one eye as symbolic of closing the eye of reason, logic. 
 
And she had opened the other eye symbolic of love, intuition, awareness. 
 
 
 
And then he remembered the posture.
Aiming at the unknown invisible, 
we are on the journey to know the unknown 
– to know that which cannot be known. 
That is real knowledge: 
to know that which cannot be known, 
to realize that which is unrealizable, 
to attain that which cannot be attained. 
This impossible passion is what makes a man a religious seeker.
 
Yes, it is impossible. 
By’impossible’ I don’t mean that it will not happen; 
by’impossible’ I mean that it cannot happen unless you are utterly transformed. 
 
As you are it cannot happen, 
but there are different ways of being. 
 
And you can be totally a new man... then it happens. 
It is possible for a different kind of man. 
 
 
That’s why Jesus says: 
Until you are reborn, you will not know it. 
 
 
A new man will know it.
You come to me. 
YOU will not know it. 
I will have to kill you,
I will have to be drastically dangerous to you... 
you will have to disappear. 
And the new man is born, 
a new consciousness comes in 
– because there is something indestructible in you, 
which cannot be destroyed; 
nobody can destroy it. 
Only the destructible will be destroyed and the indestructible will be there. 
When you attain to that indestructible element in your being, 
to that eternal awareness in your being, 
you are a new man, 
a new consciousness.
 
Through that the impossible is possible, 
the unattainable is attained.
 
 
 
So he remembered the posture. 
Aiming at the unknown, the invisible, the unknowable, the one 
– that is the aim. 
 
How to be one with existence? 
 
The nondual is the aim, 
where subject and object are lost, 
where I and thou are lost.
 
 
 
There is a very famous book, and a great book, of Martin Buber, I AND THOU. 
Martin Buber says the experience of prayer is an I-thou experience – he is right. 
The experience of prayer is an l-thou experience: 
God is the’thou’, 
you remain an’I’, 
and you have a dialogue, 
a communion with the thou. 
 
But Buddhism has no prayer in it, 
and Buddhism goes higher. 
 
Buddhism says: 
Even if there is an I-thou relationship, 
you remain divided, 
you remain separate. 
You can shout at each other, 
but there will be no communion. 
 
The communion happens only when the I-thou division is no more; 
when subject and object disappear; 
where there is no I and no thou, 
no seeker and no sought... 
when there is unity, unison.
 
Realizing this, 
seeing into this woman’s actions, and 
recognizing the truth, 
the woman called him’Saraha’. 
 
His name was Rahul; 
the woman called him Saraha.
 
’Saraha’ is a beautiful word. 
 
It means
’he who has shot the arrow’;
 
’sara’ means ’arrow’,
’ha(n)’ means ’have shot’.
 
’Saraha’ means
’one who has shot the arrow’. 
 
The moment he recognized the significance of the woman’s actions, 
those symbolic gestures, 
the moment he could read and 
decode what the woman was trying to give, 
what the woman was trying to show, 
the woman was tremendously happy. 
 
She danced and called him ’Saraha’, 
and said,
”Now, from today, you will be called Saraha: 
you have shot the arrow. 
Understanding the significance of my actions, you have penetrated.”
 
Saraha said to her, 
”You are not an ordinary arrowsmith woman 
I am sorry to have even thought that you were an ordinary arrowsmith woman. 
Excuse me, I am tremendously sorry. 
 
You are a great Master and I am reborn through you.
 
Till yesterday I was not a real Brahmin; 
from today I am. 
 
You are my Master and 
you are my mother and 
you have given me a new birth. 
 
I am no more the same. 
So, right you are
– you have dropped my old name and 
you have given me a new name.”
 
 
 
You ask me sometimes,
”Why do you give new names?” 
 
– to drop the old identity, 
to forget the past, 
not to be any more in any attachment with the past. 
A clean break is needed. 
You have to become discontinuous with the past.
 
 
Rahul became Saraha.
 
 
THE LEGEND HAS IT that the woman was nobody but a hidden Buddha. 
 
The name of the Buddha given in the scriptures is Sukhnatha 
– the Buddha who had come to help the great potential man, Saraha. 
 
Buddha, a certain Buddha of the name Sukhnatha, took the form of a woman. 
 
But why? 
why the form of a woman? 
 
Because Tantra believes that just as a man has to be born out of a woman, 
so the new birth of a disciple is also going to be out of a woman. 
In fact, all the Masters are more mothers than fathers. 
 
They have the quality of the feminine. 
 
Buddha is feminine, 
so is Mahavir, 
so is Krishna. 
 
You can see the feminine grace, 
the feminine roundness; 
you can see the feminine beauty; 
you can look into their eyes and you will not find the male aggressiveness.
 
So it is very symbolic that a Buddha took the form of a woman. 
 
Buddhas always take the form of a woman. 
 
They may be living in a male body, 
but they are feminine 
– because ALL that is born is born out of the feminine energy. 
 
Male energy can trigger it but cannot give birth.
 
A Master has to keep you in his womb for months, 
for years, sometimes for lives. 
 
One never knows when you will be ready to be born. 
 
A Master has to be a mother. 
A Master has to be tremendously capable of feminine energy, 
so that he can shower love on you
– only then can he destroy. 
 
Unless you are certain about his love, 
you will not allow him to destroy you. 
 
How will you trust? 
 
Only his love will make you able to trust.
 
And through trust, by and by, he will cut limb by limb. 
 
And one day suddenly you will disappear. 
Slowly, slowly, slowly…and you are gone. 
 
GATE, GATE, PARA GATE
– going, going, going, gone. 
 
Then the new is born.
 
The arrowsmith woman accepted him. 
 
In fact, she was waiting. 
A Master waits for the disciple. 
 
Old traditions say: 
Before a disciple chooses the Master, 
the Master has chosen the disciple. 
 
Exactly that’s what happened in this story. 
 
Sukhnatha was hiding in the form of a woman waiting for Saraha to come and be transformed through him.
 
And it seems more logical too, 
that a Master should choose first 
– because he is more aware, he knows. 
 
He can penetrate to the very possibility of your being, the very potentiality. 
He can see your future. 
He can see that which can happen. 
 
When you choose a Master, 
you think you have chosen 
– you are wrong. 
 
How can you choose a Master? 
You are so blind, 
how can you recognize a Master? 
 
You are so unaware, 
how can you feel a Master?
 
If you start feeling him, 
that means he has already entered in your heart 
and has started playing with your energies
– that’s why you start feeling him.
 
Before a disciple ever chooses a Master, 
the Master has chosen him already.
 
She accepted. 
She was waiting for Saraha to come. 
 
They moved to a cremation ground and started living together. 
 
Why to a cremation ground? 
 
Because Buddha says: 
Unless you understand death 
you will not be able to understand life. 
Unless you DIE, you will not be reborn.
 
Many Tantra disciples have lived in the cremation ground since Saraha. 
 
He was the founder
he lived in a cremation ground. 
 
People would be brought, 
dead bodies would be brought and burnt, 
and he lived there 
– that was his home. 
 
And he lived with this arrowsmith woman; 
they lived together. 
 
There was great love between them 
– not the love of a woman and a man, 
 
but the love of a Master and a disciple, 
which is certainly higher than any man-woman love can ever reach, 
which is more intimate, certainly more intimate... 
because a man-woman love affair is just of the bodies. 
 
At the most, sometimes it reaches to the mind; 
otherwise it remains in the body.
 
A disciple and a Master 
– it is a soul love affair. 
 
Saraha had found his soulmate. 
They were in tremendous love, great love, 
which rarely happens on the earth.
 
She taught him Tantra
Only a woman can teach Tantra
 
Somebody asked me why I have chosen Kaveesha to be the group leader for Tantra
– only a woman can be a Tantra group leader. 
 
It will be difficult for a man. 
Yes, sometimes a man can also be, 
but then he will have to become very very feminine. 
 
A woman is already; 
she has already those qualities, those loving, affectionate qualities; 
she naturally has that care, that love, that feeling for the soft.
 
Saraha became a tantrika under the guidance of this arrowsmith woman. 
 
Now he was no longer meditating. 
 
One day he had left all the Vedas, scriptures, knowledge; 
 
now he left even meditation. 
 
Now rumors started spreading all over the country: 
He no longer meditates. 
 
He sings, of course, and dances too, 
but no meditation any more. 
 
Now singing was his meditation. 
Now dancing was his meditation. 
Now celebration was his whole lifestyle.
 
Living in a cremation ground and celebrating! 
Living where only death happens and living joyously! 
 
This is the beauty of Tantra
– it joins together the opposites, the contraries, the contradictories. 
 
If you go to the cremation ground you will feel sad; 
it will be difficult for you to be joyous; 
it will be very difficult for you to sing and dance where people are being burnt, 
and where people are crying and weeping. 
 
And every day death and death... day and night death. 
 
How will you rejoice?
 
But if you cannot rejoice there, 
then all that you think is your joy is just a make-believe. 
 
If you can rejoice there, 
then joy has really happened to you. 
 
Now it is unconditional. 
Now it doesn’t make any difference whether death happens or life, 
whether somebody is born or somebody is dying.
 
Saraha started singing and dancing. 
He was no longer serious – Tantra is not. 
 
Tantra is a playfulness. 
 
Yes, it is sincere, but not serious. 
It is very joyous. 
 
Play entered his being
Tantra is play, 
because Tantra is a highly evolved form of love: 
Love is play.
 
There are people who would not like even love to be a play. 
 
 
Mahatma Gandhi says: 
Make love only when you want to reproduce. 
 
 
Even love they change into work 
– reproduction. 
 
This is just ugly! 
 
Make love to your woman only when you want to reproduce 
– is she a factory!?
’Reproduction’?
– the very word is ugly. 
 
Love is fun! 
Make love to your woman when you are feeling happy, joyous, 
when you are at the top of the world. 
Share that energy. 
Love your man when you have that quality of dance and song and joy 
– not for reproduction! 
The word’reproduction’ is obscene! 
Make love out of joy, out of abundant joy. 
Give when you have it!
Play entered into his being. 
A lover has always the spirit of play. 
 
The moment the spirit of play dies, 
you become a husband or a wife, 
then you are no longer lovers; 
then you reproduce. 
 
And the moment you become a husband or a wife, 
something beautiful has gone dead. 
It is no more alive, the juice flows no more. 
 
Now it is just pretension, hypocrisy.
 
Play entered his being, and through play true religion was born. 
 
His ecstasy was so infectious that people started coming to watch him dancing and singing. 
 
And when people would come and watch, 
they would start dancing, 
they would start singing with him. 
 
The cremation ground became a great celebration. 
Yes, bodies were being burnt still, 
but more and more crowds started gathering around Saraha and the arrowsmith woman, 
and great joy was created on that cremation ground.
 
And it became so infectious that people who had never heard anything about ecstasy would come, dance and sing, and fall into ecstasy, go into Samadhi. 
 
His very vibration, 
his very presence, 
became so potent that just if you were ready to participate with him, it would happen... contact high. 
 
Those who came around him he was so drunk that his inner drunkenness started overflowing to other people. 
He was so stoned that others started becoming stoned and more stoned.
 
 
But then the inevitable: 
the Brahmins and the priests and the scholars and the so-called righteous people started vilifying and slandering him 
– that I call the inevitable. 
 
Whenever there is a man like Saraha, 
the scholars are going to be against him, 
the priests are going to be against him, 
and the so-called moral people, puritans, self-righteous people. 
 
They started spreading absolutely unbiased rumors about him.
They started saying to people:
”He has fallen from grace. 
He is a pervert. 
He is no more a Brahmin. 
He has given up celibacy. 
He is no more even a Buddhist monk. 
He indulges in shameful practices with a low-caste woman and runs around like a mad dog in all directions.” 
 
His ecstasy was just like a mad dog to them 
– it depends how you interpret. 
He was dancing all over the cremation ground. 
 
He WAS mad, but he was not a mad dog
– he was a mad god!
 
It depends on how you look.
 
The king also was told these things. 
He was anxious to know exactly what was happening. 
He became worried; 
more and more people started coming to him. 
They knew him; 
they knew that the king was always deeply respectful towards Saraha, 
that he wanted to appoint him as his counsellor in the court, 
but Saraha had renounced the world. 
 
The king had much respect for his learning, 
so they started coming to the king.
 
The king was worried. 
He had loved the young man and respected him too, and he was concerned. 
So he sent a few people to persuade Saraha and tell him:
”Come back to your old ways. 
You are a Brahmin, 
your father was a great scholar, 
you yourself were a great scholar 
– what are you doing? 
You have gone astray
Come back home. I am still here! 
You come to the palace, be part of my family. 
This is not good.”
 
The people went and Saraha sang one hundred and sixty verses to those people who had come to convert him. 
 
Those one hundred and sixty verses... 
and those people started dancing and they never came back!
 
The king was even more worried. 
The king’s wife, the queen, was also always interested in the young man. 
She wanted the young man to marry her daughter, so she went there. 
 
And Saraha sang eighty verses to the queen... and she never came back.
 
Now the king was much puzzled: 
”What is happening there?” 
 
So the king himself went there, 
and Saraha sang forty verses 
and the king was converted, 
and he started dancing in the cremation ground like a mad dog.
 
 
 
So there are three scriptures available in the name of Saraha: 
 
first, The People’s Song of Saraha 
– one hundred and eighty verses; 
 
second, The Queen’s Song of Saraha 
first, one hundred and sixty verses, 
second eighty verses; 
 
and The Royal Song of Saraha which we are going to meditate upon forty verses. 
 
One hundred and sixty verses for the people 
because their understanding was not great; 
 
eighty for the queen
– she was a little higher, 
her understanding was a little higher; 
 
forty for the king 
because he was really a man of intelligence, of awareness, of understanding.
 
Because the king was converted, 
the whole country, by and by, was converted. 
 
And it is said in the old scriptures that a time came when the whole country became empty. 
 
Empty?! 
– it is a Buddhist word. 
 
It means people became nobodies, 
they lost their ego-trips. 
 
People started enjoying the moment. 
 
The hustle and bustle, 
the competitive violence, 
disappeared from the country. 
 
It became a silent country. 
It became empty... as if nobody was there. 
 
The men as such disappeared from the country; 
a great divineness descended on the country. 
 
These forty verses were at the root of it, 
the very source of it.
 
 
 
NOW WE ENTER into this great pilgrimage: 
The Royal Song of Saraha. 
 
 
 
 
It is also called
’The Song on Human Action’ 
– very paradoxical, 
 
because it has nothing to do with action. 
 
That’s why it is also called
’The Song on Human Action’. 
 
It has something to do with the being, 
but when the being is transformed, 
action is transformed. 
 
When YOU are transformed, 
your behavior is transformed 
– not vice versa
 
Not that first you change your action and then your being changes – no. 
 
Tantra says: 
First change your being 
and then 
your action changes automatically, of its own accord.
 
First attain to a different kind of consciousness, 
and that will be followed by a different kind of action, character, behavior.
 
 
Tantra believes in being, 
not in action and character. 
 
 
That’s why it is also called
’The Song on Human Action’
– because once being is transformed, 
your actions are transformed. 
 
That is the only way to change your actions. 
 
Who has ever been able to change his actions directly? 
 
You can only pretend.
 
If you have anger in you and 
you want to change your action, 
what will you do? 
 
You will suppress the anger and 
you will show a false face; 
you will have to wear a mask. 
 
If you have sexuality in you, 
what will you do to change it? 
 
You can take the vow of celibacy
– of brahmacharya – 
and you can pretend, 
but deep down the volcano continues. 
 
You are sitting on a volcano which can erupt any moment. 
 
You will be constantly trembling, constantly afraid, in fear.
 
Have you not watched the so-called religious people? 
 
They are always afraid – afraid of hell – 
and always trying somehow to get into heaven. 
 
But they don’t know what heaven is; 
they have not tasted it at all.
 
If you change your consciousness, 
heaven comes in you, 
not that you go to heaven. 
 
Nobody has ever gone to heaven, 
and 
nobody has ever gone to hell. 
 
Let it be decided once and for all: 
heaven comes to you, 
hell comes to you
– it depends on you. 
 
Whatsoever you call, it comes.
 
If your BEING changes, 
you suddenly become available to heaven
– heaven descends on you. 
 
If your being does not change. 
you are in a conflict; 
you are forcing something which is not there. 
 
You become false and false and more false, 
and 
you become two persons, you become schizophrenic, split.... 
 
You show something, 
you are something else. 
 
You say something
– you never do it, you do something else. 
 
And then you are continuously playing hide-and-seek with yourself. 
 
Anxiety, anguish, are natural in such a state
– that’s what hell is.
 
Now the Song:
 
 
I BOW DOWN TO NOBLE MANJUSRI
I BOW DOWN TO HIM WHO HAS CONQUERED THE FINITE
 
 
This word’Manjusri’ has to be understood. 
 
Manjusri was one of the disciples of Buddha, 
but he was a very rare disciple. 
 
Buddha had many rare disciples; 
in different ways they were rare. 
 
Mahakashyap was rare 
because he could understand the message not delivered in words... and so on and so forth. 
 
Manjusri was rare 
because he had the greatest quality of being a Master.
 
Whenever somebody was too much of a difficult problem, 
somebody was a problematic person, 
Buddha would send him to Manjusri. 
 
Just the name of Manjusri and people would start trembling. 
He was really a hard man, 
he was really drastic. 
 
Whenever somebody was sent to Manjusri, 
the disciples would say: 
”That person has gone to Manjusri’s sword.” 
 
It has become famous down the ages: 
the sword of Manjusri 
– because Manjusri used to cut the head in one stroke; 
he was not a slowgoer: 
He would simply cut the head in one stroke. 
 
His compassion was so great that he could be so cruel.
 
So, by and by, the name of Manjusri became a representative name 
– a name for all Masters, 
because they are all compassionate 
and 
they all have to be cruel. 
 
Compassionate because they will give birth to a new man in you; 
cruel because they will have to destroy and demolish the old.
 
So when Saraha bows down first before starting his Song, he says:
 
 
I BOW DOWN TO NOBLE MANJUSRI 
– the Master of all Masters – 
I BOW DOWN TO HIM WHO HAS CONQUERED THE FINITE. 
 
 
And then he bows down to Buddha who has conquered the finite, 
and who has become the infinite.
 
 
AS CALM WATER LASHED BY WIND TURNS INTO WAVES AND ROLLERS, 
SO THE KING THINKS OF SARAHA
IN MANY WAYS, ALTHOUGH ONE MAN.
 
 
Visualize a lake, a placid, silent lake, with no waves. 
 
Then there comes a great wind and 
it starts playing on the surface of the lake, and 
the lake is disturbed, and 
a thousand and one ripples and 
waves arise. 
 
Just a moment before, 
the reflection of the full moon was there in the lake; 
now it is no more there. 
 
Now the moon is still reflected, 
but in a thousand and one fragments. 
 
It is all over the lake. 
 
The whole lake is silvery 
because of the reflection
but you cannot catch hold of the real reflection 
– where the moon is, how it looks. 
It is all distorted.
 
Saraha says this is the situation of the worldly mind, of the deluded. 
 
This is the only difference between a Buddha and a non-Buddha. 
 
A Buddha is one whose wind is no more blowing. 
That wind is called TRISHNA – desire. 
 
Have you watched, observed? 
 
Whenever there is desire, 
there are a thousand and one ripples in your heart, 
your consciousness is disturbed and distracted. 
 
Whenever desire stops, 
you are at ease, 
at peace with yourself.
 
So desire is the wind that distorts the mind. 
 
And when the mind is distorted, 
you cannot reflect the reality.
 
 
AS CALM WATER LASHED BY WIND TURNS INTO WAVES AND ROLLERS, 
SO THE KING THINKS OF SARAHA
IN MANY WAYS, ALTHOUGH ONE MAN.
 
 
Saraha says two things. 
 
First he says: 
Your mind is too much disturbed by the rumors, 
so much wind has blown over the surface of your mind. 
You will not be able to see me, 
THOUGH I AM ONE
– but your mind is reflecting me in a thousand fragments.
 
This was true. 
He could see through and through the king. 
 
The king was puzzled. 
On one hand he respected the young man, 
on one hand he had always trusted the young man he knew that he could not be wrong. 
 
But so many people, 
so many so-called honest, 
respectable people, rich, learned, came to him and they all reported: 
”He has gone wrong, 
he has become almost mad 
– he is a maniac, 
he is a pervert, 
he lives with an arrowsmith woman of low caste. 
He lives in the cremation ground 
– this is not a place to live! 
He has forgotten all old rituals; 
he no more reads the Vedas, 
he no more chants the name of the God. 
He is not even heard to meditate. 
And he is indulging in strange, ugly, shameful practices.”
 
Tantra looks shameful to people who are very much sexually repressed. 
They cannot understand 
– because of their repressions they cannot understand what is happening.
 
So all these things are like a great wind in the mind of the king. 
One part of him loves and respects; 
one part of him is in deep doubt.
Saraha looked directly and he said: 
 
 
SO THE KING THINKS OF SARAHA IN MANY WAYS, 
ALTHOUGH ONE MAN. 
 
 
Although Saraha is one man: 
I am just like the full moon, 
but the lake is in turmoil. 
 
So please, if you want to understand me, 
there is no way to understand me directly 
– the only way to understand me is to stop this wind which is blowing on the surface of your mind. 
 
Let your consciousness be at ease... 
then see! 
 
Let all these waves and the rollers stop, 
let your consciousness be a placid pool, 
and then you see. 
 
I cannot convince you of what is happening unless you are able to see it. 
 
It is happening, it is here. 
 
I am here standing before you. 
 
I am one man, but I can see in you 
– you are looking at me as if I am a thousand men.
 
 
TO A FOOL WHO SQUINTS ONE LAMP IS AS TWO;
WHERE SEEN AND SEER ARE NOT TWO, AH! THE MIND WORKS ON THE THINGNESS OF THEM BOTH.
 
 
And then he takes similes, metaphors. 
 
First he says’like a lake you are in turmoil’. 
 
Then he says: 
 
 
TO A FOOL WHO SQUINTS ONE LAMP IS AS TWO 
 
 
– he cannot see one, he sees two.
 
 
 
I have heard:
Mulla Nasrudin was teaching his son the ways of being a drunkard. 
After a few drinks, Mulla said,
”Now, let us go. 
Always remember, this is the rule to stop: 
when you start seeing that one person is looking like two, then go home
– it is enough.”
 
One person looking like two, but the son said,
”Where? Where is that one person?” 
He said, 
”Look there on that table two persons are sitting.”
 
And the son said,
”There is nobody!” 
 
He had already drunk too much.
 
 
 
Remember, 
when you are unconscious, 
things don’t look as they are; 
when you are unconscious, you project. 
 
Tonight looking at the moon you can press your eye with your finger, and you can see two moons. 
 
And when you are seeing two moons, 
it is very difficult to believe that there is one 
– you are seeing two. 
 
Just think. 
 
Somebody is born with a natural defect: 
his eye has that pressure which makes one thing look like two 
– he will always see two things. 
Wherever you see one, he will see two.
 
Our inner vision is clouded with many things, 
so we go on seeing things which are not. 
 
And when we see, how can we believe that they are not? 
 
We have to trust our own eyes, and our own eyes may be distorting.
 
 
TO A FOOL WHO SQUINTS
ONE LAMP IS AS TWO;
WHERE SEEN AND SEER ARE NOT TWO...
 
 
Saraha says to the king: 
If you are thinking I and you are two, 
then you are unconscious, 
then you are a fool, 
then you are drunk, 
then you don’t know how to see. 
 
If you see really, 
then I and you are one, 
then the seer and the seen are not two. 
 
Then you will not see Saraha dancing here
– you will see yourself dancing here. 
 
Then when I go into ecstasy, 
YOU will go into ecstasy and 
that will be the only way to know what has happened to Saraha, 
there is no other way. 
 
What has happened to me? 
 
If you want to know, the only way is to become a participant in my being. 
 
Don’t be a watcher. 
Don’t stand aside and just become a spectator. 
 
You will have to participate in my experience; 
you will have to lose yourself a little bit into me. 
You will have to overlap my boundaries.
 
That’s what sannyas is all about. 
 
You start coming closer, 
you start losing your boundaries into me. 
 
Only then, one day, through participation, 
when you fall en rapport with me, 
something will be seen,
something will be understood. 
 
And you will not be able to convince anybody else who has been just a spectator 
– because your visions will be different. 
 
You have participated, and he has only been observing
– you are living in two different worlds.
 
 
THOUGH THE HOUSE-LAMPS HAVE BEEN LIT... 
 
 
Listen to this beautiful saying of Saraha:
 
 
THOUGH THE HOUSE-LAMPS HAVE BEEN LIT, THE BLIND LIVE ON IN THE DARK.
THOUGH SPONTANEITY IS ALL-ENCOMPASSING AND CLOSE,
TO THE DELUDED IT REMAINS ALWAYS FAR AWAY.
 
 
HE SAYS: Look! I have become Enlightened. 
 
 
THOUGH THE HOUSE-LAMPS HAVE BEEN LIT... 
 
 
my innermost core is no more dark. See! 
There is great light in me. 
My soul is awakened. 
I am no more the same Rahul you used to know
– I am Saraha: my arrow has reached the target.
 
 
THOUGH THE HOUSE-LAMPS HAVE BEEN LIT,
THE BLIND LIVE ON IN THE DARK.
 
 
But what can I do? 
Saraha says. 
 
If somebody is blind, 
even when the house-lamps are lit he goes on living in darkness. 
 
Not that the lamps are missing, 
but his eyes are closed. 
 
So don’t listen to blind people! 
Just open your eyes and look at me, see me 
– who is standing in front of you, whom you are confronting.
 
 
THE BLIND LIVE ON IN THE DARK,
THOUGH THE HOUSE-LAMPS HAVE BEEN LIT.
THOUGH SPONTANEITY IS ALL-ENCOMPASSING AND CLOSE...
 
 
And I am so close to you... 
the spontaneity is so close to you, 
you can already touch it and 
eat it and drink it. 
 
You can DANCE with me and 
you can move into ecstasy with me. 
 
I am SO close
– you may not find spontaneity so close again!
 
 
TO THE DELUDED IT REMAINS ALWAYS FAR AWAY.
 
 
They talk about Samadhi, 
and they read the Patanjali Sutras, 
they talk about great things, 
but whenever that great thing happens they are against it.
 
This is something very strange about man. 
Man is a very strange animal. 
 
You can appreciate Buddha, 
but if Buddha comes and just confronts you, 
you will not be able to appreciate him at all 
– you may go against him, 
you may become the enemy. 
 
Why? 
 
When you read a book about Buddha,
everything is okay, 
the book is in your hand. 
 
When an alive Buddha has to be confronted, 
he is NOT in your hand you are falling into his hand. 
Hence the fear, resistance. 
One wants to escape.
 
And the best way to escape is to convince yourself that 
he has gone wrong, 
something is wrong with him. 
 
That is the only way
– if you prove to yourself that he is wrong. 
 
And you can find a thousand and one things in a Buddha which can look wrong, 
because you are squinting and 
you are blind and 
your mind is in a turmoil. 
 
You can project anything.
 
 
Now, this man has attained to Buddhahood, 
and 
they are talking about the low-caste woman. 
 
 
They have not looked into that woman’s reality. 
They have only been thinking that she is an arrowsmith woman, so low-caste, SUDRA, untouchable. 
 
How can a Brahmin touch an untouchable woman? 
How can the Brahmin live there?
 
And they have heard that the woman cooks food for him. 
 
This is a great sin; 
this is a great fall 
– a Brahmin eating food cooked by a sudra, 
by an untouchable, 
by a low-caste woman? 
 
And why should a Brahmin live on the cremation ground? 
 
Brahmins have never lived there. 
They live in the temples, 
they live in the palaces. 
 
Why on the cremation ground? 
– dirty place, skulls and dead bodies all around. 
This is perversion!
 
But they have not looked into the fact that 
unless you understand death 
you will never be able to understand life. 
 
When you have looked deep into death and found that life is never dead, 
when you have looked, 
penetrated deep into death and 
found that life continues even after death, 
that death makes no difference, 
that death is immaterial... 
you don’t know anything about life 
– life is eternal, timeless. 
 
So only the body dies. 
So only the DEAD dies. 
 
The alive continues. 
But for this, one has to go into deep experimentation. 
 
They will not look at that.
 
Now they have heard that he is going into strange practices. 
And they must have gossipped and exaggerated; 
things must have gone out of their hands. 
Everybody goes on multiplying the gossip. 
And there are Tantra practices which can be gossipped about.
 
In Tantra the man sits in front of the woman, 
the naked woman, 
and he has to watch her so deeply to see her through and through, 
that all desire to see a woman naked disappears. 
 
Then man is free from the form. 
Now this is a great secret technique; 
otherwise you go on continuously seeing her in your mind. 
Each woman that passes by on the road, 
you want to undress her – that is there.
 
Now suddenly you see Saraha sitting before a naked woman. 
 
How will you interpret? 
 
You will interpret according to yourself. 
You will say, 
”So okay, what we always wanted to do he is doing, so we are better than him. 
At least we are not doing it. 
Of course, we visualize sometimes, 
but it is only in thought, not in deed. 
He has fallen.” 
 
And you will not miss the opportunity.
 
But what is he really doing? 
It is a secret science. 
By watching, for months together... 
the tantrika will watch the woman, 
meditate on her body form, 
meditate on her beauty, 
will look at everything, 
whatsoever he wants to look at. 
 
Breasts have some appeal
– he will look and meditate on the breasts. 
 
He has to get rid of the form, 
and the only way to get rid of the form is to know it so deeply that it has no attraction any more.
 
Now. 
something just the opposite is happening from what the gossippers are saying. 
 
He is going beyond. 
Never again will he want to undress a woman not even in the mind, 
not even in the dream.
 
That obsession will not be there. 
But the crowd, the mob, has its own ideas. 
Ignorant, unaware, they go on talking about things.
 
 
THOUGH SPONTANEITY IS ALL-ENCOMPASSING AND CLOSE,
TO THE DELUDED IT REMAINS ALWAYS FAR AWAY.
THOUGH THERE MAY BE MANY RIVERS, THEY ARE ONE IN THE SEA, 
THOUGH THERE MAY BE MANY LIES, 
ONE TRUTH WILL CONQUER ALL. 
WHEN ONE SUN APPEARS, THE DARK,
HOWEVER DEEP, WILL VANISH.
 
 
And Saraha says: 
Just look at me – the sun has risen. 
So I know, howsoever deep your dark, it is going to vanish. 
LOOK at me... the truth is born in me! 
So you may have thousands of lies about me, 
but one truth will conquer them all.
 
 
THOUGH THERE MAY BE MANY RIVERS, THEY ARE ONE IN THE SEA.
 
 
Just come close to me. 
Let your river drop into my ocean, 
and you will have my taste.
 
 
THOUGH THERE MAY BE MANY LIES, ONE TRUTH WILL CONQUER ALL.
 
 
Truth is one. 
Only lies are many, 
only lies can be many
– truth cannot be many. 
 
 
Health is one: 
diseases are many. 
 
 
And one health conquers all diseases. 
 
And one truth conquers all lies.
 
 
WHEN ONE SUN APPEARS, THE DARK,
HOWEVER DEEP, WILL VANISH.
 
 
In these four verses, 
Saraha has invited the king to enter into his inner being, 
he has opened his heart. 
And he says: 
I am not here to convince you logically. 
I am here to convince you existentially! 
I will not give any proof, and 
I will not say anything in defence of myself. 
The heart is just open 
– you come in, 
you go in. 
 
You see what has happened... 
so close is spontaneity, 
so close is God, 
so close is truth. 
The sun has risen. 
 
Remember, a mystic has no proof. 
 
He cannot have any proof by the very nature of things. 
 
HE IS the only proof 
– so he can bare his heart to you.
 
 
 
 
These verses, 
these Songs of Saraha, 
have to be meditated on deeply. 
 
 
Each song can become the opening of a flower in your heart. 
 
I hope these forty verses will become forty flowers in your being, as they became in the being of the king. 
 
The king was liberated – so can you be. 
 
Saraha has penetrated the target. 
You can also penetrate the target. 
 
You can also become a Saraha – one whose arrow is shot.
 
 
 
 
sammasatiサマサティ
(right remembrance)
正しく想起する。
 
 
『The last word of Buddha was, sammasati. 
 Remember that you are a buddha – sammasati.』
 
 
瞑想と愛 meditation & love
 
 
 
 
beloved osho
prem mashal
 
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